見出し画像

これで安心

 生来の気質なのか、わたしはひどい心配性だ。外出する際、鍵をかけたかどうか不安になり何度も引き返し、やっとのことで外出したかと思うと火の元をちゃんと締めたかが気になって心ここにあらず、そんなことばかりだ。ほぼすべての場合でガスの元栓をちゃんと閉めている。我ながら、自分の心配性が病的ではないかと心配になるくらいだ。もしもこれが病的な心配性だったとしたらどうしたらいいのだろう。そんなことが心配になって夜も眠れない。
「そんなあなたに」と、そのセールスマンは言った。「安心をお売りしたいのです」
「保険の類いなら」と、わたしは答えた。「もう間に合ってますから」とドアを閉めようとしたのだが、セールスマンの足の方が速かった。ドアに挟まれた足にわたしの方が驚いてしまい、ドアノブを持つ手が緩んだすきに部屋に上がり込まれた。
「まさか」と、セールスマンは眉を上げながら言った。「保険?そんなものが何の役に立ちますか?それは転んだ後の杖、確かにあなたに降りかかった災難の埋め合わせはしてくれるでしょうが、あなたの求めているのはそんなものではないでしょう?」
 確かにセールスマンの言う通りだ。わたしは失いたくないのであって、失われたあとでの埋め合わせがほしいのではない。
「じゃあ」と、わたしは言った。「あなたは何を売るんです?」
 セールスマンは片方の口角を上げた。「さっきも言ったでしょう?安心ですよ。安心を売るんです」
「どうも飲み込めないのですが」
「究極のところ、あなたは何を求めていますか?」セールスマンは尋ねた。「補償?違います。災難を避けること?近いかもしれないけれど違う。あなたが求めているのは安心です。あなたは安心したいのです。安心したいために、鍵をかけたか確認し、火の元を締めたか確認するのです。泥棒が入るとか、火事になるということを怖れているのではない。あなたは安心するために心配しているのです。失われることを避けるために心配しているのではない。そこで」
「そこで?」
「本質的な解決をすべきじゃありませんか?保険にはいるのも、防犯ベルをつけるのも、対症療法にすぎません。あなたの中にある病巣自体を取り除く、それこそが必要なことじゃありませんか?」
 わたしはセールスマンの勢いに圧倒されていた。
「本質的な解決とはつまり、安心を、安心自体をあなたが手に入れることです。それさえあれば、あなたは何も怖れることはない。何も心配することもない」
「でも」と、わたしは言った。「きっとお高いのでしょう?」
「いえいえ」とセールスマンは頭を振った。「ご心配なく。安心ですよ。その字の中に「安」と入っているじゃありませんか。高いわけがない」
 とはいえ、安心はそこまで安いものでもなかった。考えてみればすぐにわかることだが、安心は「安い心」ではなくて、「安らかな心」だ。まあ、それはいい。なぜわたしがセールスマンの言う安心の値段を知っているのか。それはつまり、わたしが安心を買うことにしたからだ。
「これが安心ですか?」わたしはそれをセールスマンから手渡され、様々な角度から眺めた。
「そう、安心です」セールスマンは頷いた。「これであなたは常に安心していられます」セールスマンは笑顔を浮かべ、去っていった。
 さて、安心を手に入れたわたしだが、確かにセールスマンの言う通り心安らかになった。心は常に平静で、心配事が浮上してくることは無い。つねに安心していられる。何を失うのも怖くない。もう数回鍵をかけ忘れて空き巣に入られた。うっかりでぼやを出してしまった。ぼんやりしていて車に轢かれそうになったことは一度や二度でない。しかしながら、わたしはとても心安らかで幸福である。


No.533


兼藤伊太郎のnoteで掲載しているショートショートを集めた電子書籍があります。
1話から100話まで

101話から200話まで

201話から300話まで

noteに掲載したものしか収録されていません。順番も完全に掲載順です。
よろしければ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?