見出し画像

千々にちぎれる

 人を殺すことに決めたというのに冷静な自分が不思議だった。昂ぶりのようなものもなかったし、緊張もしていなかった。手に入らないのであれば、そんなものは存在しない方がいい。たとえそれが誰にも譲れないくらい大切なものであっても。むしろそれだけ大切なものだからこそ。我ながらひどい論理だと思うが、決心は揺るがない。そう、決めたのだ。心に決めた。雲一つ無く晴れ渡った午後。
 早速、刃物を買いに行ったけれど、どこに行っても売っていなかった。スーパーマーケットにも、デパートにも、ホームセンターにも、もしかしたらとコンビニエンスストアも確かめたが無い。包丁の専門店にいたってはシャッターが閉まっていた。刃物と言う刃物が無かった。包丁も、ナイフも、鋏も、鋸も。もしかしたらペーパーナイフさえなかったかもしれない。
 店員に尋ねると、彼は肩をすくめた。
「ホントだ。刃物という刃物がありませんね」
「必要なんです」
「なんのために?」
「人を殺すために」
「それはそれは」と店員は言った。「でも、無いものは無いんですよ。残念ながら」
「困ります」
「延期したらどうです?」
「何を?」
「殺すのを」
 そのくらいで揺らぐような決意ではない。残念ながら。残念ながら?残念なものか。
 他の手段を考えないとならない。縄を用意するか、毒を手に入れるか。金槌で殴るのもいいのかもしれない。でも、どれも違うのだ。それは殺したい殺し方ではない。刃物でなければならないのだ。刃物が、その肉に食い込まれて行かなければならない。刃物が必要なんだ。
 買うのは諦めて盗むことにした。殺人と言う罪に窃盗が加わるくらい大したことが無いように思った。さすがに、どこかの厨房か台所には包丁があるはずだ。それが無ければ、人々はどうやって料理をしていたっていうんだ。どうやってリンゴの皮を剥いていたの?どうやって大根を桂剥きしていたの?
 ところが、街中の家々や料理店を探しても刃物は見付からない。空き巣に入って、台所も物色したし、料理屋に忍び込んで厨房を引っ掻き回しもした。どこにもない。街から刃物という刃物が消え失せてしまったようだ。そんなことなんてあり得るだろうか。 
 わたしの心は千々にちぎれんばかりだった。なぜ邪魔をするのだ。わたしの何が悪いのだ。わたしは呪った。全てを呪った。神を呪い、仏を呪った。悪魔も、天使も、政治家も、宇宙飛行士も、俳優も、ニュースキャスターも、赤ん坊も、空き缶も、ネジも、金網も、野良犬も、兵士も、象も、本も、錆も、埃も、太陽も、ありとあらゆるものを呪った。そして、最後に自分を呪った。自分がこうして存在することを呪った。心優しい人なら、君も祝福されて生まれて来たのだ、とかなんとか言うかもしれないが、そんなことは知らない。呪わしいものは呪わしい。自分がこうあることでなく、自分があること自体を強く呪った。
 涙は枯れていたから涙は出なかった。部屋に戻り、毛布を被った。そして、目を閉じて、自分が存在しない世界を思った。
 結局、わたしは誰のことも愛してなんかいなかったし、殺したいと思ったりもしていなかったのだ。
「消えてしまいたい」
 わたしの声帯が空気を振るわして発生した音が、わたしの部屋に飛び散った。わたしは確かにそこにいて、嗚咽しながら泣いていた。

No.311 

兼藤伊太郎のnoteで掲載しているショートショートを集めた電子書籍があります。
1話から100話まで

101話から200話まで

201話から300話まで

noteに掲載したものしか収録されていません。順番も完全に掲載順です。
よろしければ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?