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死神

 シンプルなことだ。人間はみな死ぬ。哲学者は人間である。ゆえに哲学者は死ぬ。この「哲学者」は他の職業や、他のなんらかの性質、老若男女などでも代替可能だ。大統領でも独裁者でも料理人でも運転手でも泥棒でも殺人鬼でも。男でも女でも。まあ、死神であるぼくがこんなことを語るのもなんだが。死神は死なない。魚のように釣り上げられてしまう漁師なんていないし、畑で栽培される農民もいない。それと同じように、死神は死なない。
 死神の仕事に関して、誤解の多いのは、ぼくらが死の使いであるというものだ。大きな鎌を持った姿で描かれ、たいていその顔には薄ら笑いを浮かんで、いる。だが、それは間違いだ。鎌は持っていない。そんな邪魔なものを持ち歩けるものか。それと、薄ら笑いも浮かべたりしない。よく仏頂面だと言われる。その鎌で、ぼくらは人間の命を刈り取ると思われているだろう。誤解だ。ぼくらは誰の命も奪ったりしない。そんなことをするまでもなく、人間は自ずと死ぬのだ。先程も述べたように、人間はみな死ぬ。それは自然に。ぼくらがするのは、死んだ人間を回収することだ。喩えは悪いかもしれないが、ゴミの回収人のようなものだ。いつゴミを出すかは当人たちの問題であり、ぼくらは出されたそれを回収するだけでしかない。もちろん、だいたいの予測というか、予定のようなものは把握している。でないと、回収し損なうような自体が起こりかねない。予定を把握した上で、そこに赴き、それを待つのだ。そしてその時が来たら、それを粛々と回収する。まあ、面白くもない仕事だ。正直そう思う。仕事の大半は待つことに費やされるわけで、性に合わない者は性に合わないだろう。もっと積極的に仕事をしたいと思う者だっているかもしれない。残念ながら、向かないと言っても死神は死神なのだが、まあそれは別の話だからよしておこう。
 もう一つ、ぼくらの姿は普通は人には見えない。見えていたところで、ぼくらは普通の人間となんら変わりのない格好なわけで、なんの問題もないように思うのだが、まあそうなっている。たとえば、あなたの姿が誰の目にも間違いなく見えるのがどうしようもないように、ぼくらの姿が見えないのもどうしようもない。
 普通、と断るからには例外がある。ぼくらの姿は、死期の迫った人間には見えるのだ。
 その日ぼくに割り当てられた仕事は、ある老人の回収だった。平凡な人生を送った、平凡な男。妻に先立たれ、子供もなく、一人で暮らしている老人だった。こじんまりとした部屋で、身の回りのことは誰の手も借りずに独力でこなしていた。まさか死期が迫っているなどとは思えないくらいしっかりとしている。どんな人生もそれぞれかけがいのない特別な一生である、といういのは限りある生を生きる人間の感じることで、幾千幾万幾億の死を見てきた死神に言わせれば、どんな生もどんな死もことごとく平凡極まりないものだ。気分を害さないで欲しい。視点が違えば自ずと見え方も変わってくるというものだ。
 結果的に、ぼくは彼の死の二日前から彼と行動を共にした。ぼくらの予測の精度はその程度なのだ。
 おそらく、彼はぼくが彼に張り付いた段階から、ぼくの姿が見えていたと思う。死期が迫ると死神の姿が見えると言っても、これには個人差がある。直前にならないと見えない人間もいる。これはぼくの個人的な意見なのだが、死に対するその人の覚悟のようなものによって、これの長さは変わるのだと思う。自分の死を受け入れることで、彼らはぼくらの姿を見ることができるに違いない。二日はかなり早い段階だ。
 なんとなく、彼がこちらを気にする気配はある。しかし、何かを働きかけてはこない。彼はそうして、淡々と暮らした。朝起きて、家事をこなし、食事をとり、眠る。これが彼が守り続けて来たルーティンなのだろう。そうして遂にいまわの時が来た。
 真夜中だった。彼は床に就いたが、眠ってはいなかった。ぼくは彼の枕元に立ち、彼の顔を覗き込んだ。
「あんたは死神かね?」彼は言った。
「ああ」ぼくは答えた。
「わたしを殺すのかね?」彼には怯えた様子はなかった。
「いや」そして、ぼくは彼に死神の仕事について話した。彼は黙ってそれを聞いていた。
「死んだらどうなるんだい?」彼はそう尋ねた。「わたしの魂を持って行くのかい?」
「死んだら、その先は無だ」ぼくは答えた。「あなたが生きた記憶や思いをぼくは回収する。まあ、それを魂と呼びたければ呼べばいいと思うけど」
「なるほど」と彼は息をついた。「あの世であいつと再会するなんてこともないか」
 彼が妻のことを言っていることがわかった。
「残念だけど」ぼくがそう言うが早いか、彼は息を引き取った。ぼくは自分の仕事を済ませ、そこを後にした。

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