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世界が終わるまでは

「ねえ」と、彼は彼女に言った。「君は知ってる?」
「なにを?」と、彼女は言った。
「明日になったら」と、彼は言った。「世界が滅んでしまうこと」
「そう」と、彼女は言った。「じゃあ、それまでの残された時間、大切な人たちと過ごさないと」
「たとえば?」と、彼はおずおずと尋ねた。もちろん、彼としては自分の名前がそこに含まれていてほしい。いや、自分の名前だけが挙げられてほしいと思っている。
「ママとか」と、彼女は言った。「おじいちゃんとか、おばあちゃん、八人の弟たち」
「八人?」と、彼は驚いた。「弟が八人もいるの?」
「うん」と、彼女は答えた。「ダメ?」
「いや」と、彼は肩をすくめた。「ダメなんて、そんなことないよ。ただ、驚いただけ」彼自身はひとりっ子だったから、兄弟のいることすらも想像できなかったし、八人ともなると完全に不可能なように思われた。
「君がダメだって言っても」と、彼女は鼻息荒く言った。「ただのひとりだって減らせないから。みんな大切な弟だから」
「だろうね」と、彼は肩をすくめた。「それから?他には?」
「パパのことなら、嫌いだから世界が滅びるときにも一緒にいたくない」
「そう」と、彼は心ここにあらずと言った様子で言った。「そんな気分、わかる気がするよ」そして、先を促すか迷った。まだ自分の名前が出ていない。「それから?他には?」「それから?」「それから」「これでおしまい」そんな風に、会話が終わってしまうのを、彼は恐れたのだ。自分の名前が上る前に、リストが終わることを。世界が終わってしまうことよりも、そのことのほうが彼は怖かった。
 彼女がそんな彼の顔を覗き込んでいる。笑みを浮かべながら、自分の振る舞いが彼を苛んでいる様子を楽しむように。彼はその視線に気づき、肩をすくめ、ため息をつく。「オーケー、わかったよ。それでおしまい」という意思表明。言葉にするとそれが確定してしまいそうで、言葉にはできない。
「ウソだよ」と、彼女は言う。「ウソ。君と一緒にいる」
 彼は肩をすくめる。
「君と一緒にいたい」と、彼女は微笑む。自分の振る舞いが十分彼を傷つけたのに、彼女は満足しているようだ。
 彼は肩をすくめる。
「一緒にいさせて」と、彼女は声を上げて笑った。
 彼は頬を赤らめてうなずく。彼と彼女は手をつないだ。そっと、力強く。
 ふたりは立ち上がると、階段を登っていく。エレベーターは動いていない。電気が止まっているのだ。おそらく、発電所で働く人々もそれぞれの大切な人と最後の時間を過ごしているのだろう。電車も、バスもそうだ。テレビも映らない。もし電気が止まっていなかったとしても、電波自体が飛んでいないだろう。テレビ局もラジオ局ももぬけの殻に違いない。世界が終わるときに、働いている人間などいないだろう。目の前で人が死にそうになっていたとして、医者がそれを無視して大切な人のもとに走ったとして誰が責められよう。医者の命や人生は医者のものであり、それは誰かのために供されなければならないものではないものではないだろう。それに、いま死んでも、世界が滅びるときに死んでも、大した変わりはないのだ。
 その瞬間、世界はこれまでにないほど平和だった。悪意は存在しなかった。人を騙したり、暴力で無理やりなにかを奪ったりしてなんの意味があるだろう。どうせすぐにそれも失われるのだ。世界が滅びるときに。
 ふたりは階段を登っていく。高層ビルの屋上を目指して。それ以前なら、警備員が飛んできて彼らをそこから放り出しただろうけれど、もちろんそんな警備員もいない。ふたりは手をつないで階段を登り、ついには屋上へとつながる重い扉を開いた。大きな空が広がっている。茜色に染まる空。
「きれい」と、彼女は声を漏らした。その空の片隅、小さいながらも確実に光を増しているのは、世界を滅ぼす原因たる小惑星だ。
「きれいだね」と、彼も言う。そして、彼女を見つめる。
「あ、あのさ」
「なに?」
「世界が滅んじゃう前にさ、あの」
「なに?」
「えっと、あの、いや」
「なに?」
「いや、ね。うーんと、あのさ」
「だから」と、彼女は笑う。「なに?どうしたいの?」
「君と、キスがしたいんだ」と、彼は思い切って言った。「世界が終わる前に」
 彼女は微笑む。
「ダメ?」
「いいよ」と、彼女。「最後のキスだね」
「いや」と、彼は言う。「最初のキスだ」



No.461


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