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濃い夢

 濃い夢を見た彼女は、そのせいで朝になって目が覚めても、胃の底に何かムカつくものを感じた。まるで砂糖を入れすぎたコーヒーを飲んだ後のように。少しだけ、童話で腹に石を詰め込まれた狼の気持ちがわかる気がした。すこしだけ。胃のムカつきは午前中ずっと続き、仕事中にもそれが気になっていくつかミスをした。
「調子が悪いの?」と、同僚は彼女に尋ねた。
「大丈夫」と、彼女は答えた。
 その日彼女は昼食を食べなかった。まったく食欲がわかなかったのだ。
「ダイエット?」と、同僚がからかい半分で尋ねた。
「そんなとこ」 と、彼女は適当に答えた。
 なぜ濃い夢を見たのか、彼女には心当たりがなかった。午後になって仕事が終わると、彼女は図書館へ行き、夢診断の本を手当たりしだい読み漁った。しかし、そこに書いてあるのは何がしかの象徴が、何かを表しているという、対照表のようなもので、夢の濃淡に関する記述は一切無かった。そもそも、薄い夢も存在するのかどうか彼女にはわからなかった。彼女が見たことのあるのは、濃い夢だけだったからだ。それが濃い夢だとわかるのは、それが濃い夢だからだ。それは比較する何かがなくともわかる、絶対的な濃さだった。
 夕食もサラダとジュースだけで済ました。ムカつきはだいぶ治まってきていたが、食欲は相変わらず無かった。
 夜になって、またベッドに入る頃には、胃のムカつきは消えていた。まるで最初からそんなものは無かったかのように。それならそれでいいのかもしれない。それでも彼女は何か釈然としないものを感じていた。
「あれは一体なんだったのだろう?」彼女は布団に入りひとりそう呟いた。返答を求めない問いかけだった。返答など最初から期待していない問いかけだった。そして眠りに落ちた。
 その晩彼女は夢を見なかった。目を開くと朝が来ていた。時間がすっぽり抜け落ちたような眠りだった。
 前日には昼を抜いたし、夜もろくすっぽ食べていなかったので、彼女は強い空腹を感じた。冷蔵庫を開いてみても、食べ物らしい食べ物は何も入っていなかった。仕方ないのでコップに水を注ぎ、それを一息に飲み干した。空の胃に水が流し込まれ、胃の底にしぶきを上げながら落ちていくのを、彼女は感じた。体を動かすと、胃の中で水が揺れるのを感じた。 自分がバケツか桶にでもなった気分だった。
 その日は一日、彼女は何も食べなかった。胃の中の水の感覚はすぐになくなって、空っぽの空間を腹に抱えているような状態になった。
「ダイエットもいいけど、食べないと体を壊すよ」と、昼食のとき、同僚は彼女に言った。
「ありがとう。ちゃんと食べるようにする」と、彼女は答え、結局なにも食べなかった。
 それでも彼女は空腹を感じなかった。もちろん、濃い夢のムカつきはもう無かったのだけれど、それでも何かを食べたいとは思わなかった。 まったく食欲が無かった。
 夜、布団に入り、天井を見つめながら、彼女は呟いた。「このまま何も食べないでいたら」とここまで言って、誰かの相槌でも求めるように彼女は少し言葉をと切った。「いつかわたしは死んでしまうのかしらね」
 その言葉は明かりを消した部屋を漂い、誰もそれを聞かないまま、消えた。
そして眠ると、彼女は濃い夢を見た。

No.385

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