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いやがらせ

「いやがらせをやめてもらえませんか」と言う電話口の向こうの声は冷静な口調だった。冷静を装っている風ではない。その口調からは確固たる意志と決意が感じ取れた。この女、その声は女の声だったのだ、女はそれ相応の覚悟をした上で電話をしたのだろう。「いやがらせをやめてもらえませんか」
 わたしは時計を探した。時計を見るまでもなく、夜であるのはわかった。なにしろ部屋は真っ暗である。わたしが知りたかったのは、どのくらい夜中であるかだ。見つけた時計の針は真夜中を指している。
 もしもわたしが、彼女にいやがらせをしている人間なのであれば、そんな真夜中に電話をかけてこられ叩き起こされても、自分のしてきたことに対する当然の報いだと納得できたかもしれない。もちろん、いやがらせをするような人間であれば、そうした報いなどとは考えず、理不尽に怒るかもしれない。それはそれでいい。傍目から見れば、それは当然の報いだし、むしろ因果応報、もっとひどい報いがあってしかるべきだと思う。 しかしながら、わたしは彼女にいやがらせをしたことなどなかったし、そもそも女の声には聞き覚えがなかった。わたしと何らかの関係をもったことなど無い女である。
「間違い電話じゃありませんか」とわたしは努めて冷静を装いながら言った。この理不尽な事態にわたしは苛立っていたのだが、それを気取られるのが嫌だったのだ。「わたしはあなたにいやがらせをしたことなんてありません。そもそもわたしはあなたを知りません」
「しらばっくれないで」と女は言った。語気が強くなるということもない。相変わらず冷静な口調である。「あなたは毎晩毎晩わたしにいやがらせをしています」
「なんのために?」と口をついて出た。
「それはわたしの訊きたいことです。なんのためにわたしにいやがらせをするんです?」
 ここからしばらく押し問答をした。彼女はわたしがいやがらせの犯人であると言って譲らず、わたしはそれを反駁しようと躍起になった。しかし、わたしの努力は実ることはなかった。女は納得する気配すらない。刻々と時間は過ぎていく。
 朝になれば仕事に行かなければならない。わたしの睡眠時間はどんどん奪われていっているのだ。わたしは焦り、苛立った。それでも女は相変わらず冷静で、わたしによるいやがらせをやめさせようとしている。
 わたしの怒りが爆発しそうになった瞬間だ。突然電話が切れた。無機質なツーツーという音が響く。あたりの明るいのに気づいた。朝だ。
 翌日も、その翌日も、そのまた翌日も、真夜中に同じ女から電話がかかってきた。「いやがらせをやめてもらえませんか」口調はつねに冷静で、変わることがない。そして、朝になるとそれがたとえ会話の途中であっても容赦なく電話は切れる。
そしてまたその翌日も、その次の翌日も、そのまた翌日も。毎晩毎晩電話はかかってきた。電話に出ないでおこうとしても、ベルは鳴り止まない。電話線を抜いてしまうと、何かもっと恐ろしいこと、たとえば、女がうちのドアをノックするようなことが起こりそうで恐い。わたしは仕方なく電話に出る。電話ならまだ安全だ。わたしは女の狂気を疑っていた。狂っていなければ、こうして毎晩電話をかけられるだろうか。正気の沙汰ではない。そうした狂気をわたしは恐れた。何をされるかわかったものではない。そうしてわたしは電話にで続けた。「いやがらせをやめてもらえませんか」
「いやがらせをしているのはそっちだろう」と言い返せばいいだけの話じゃないか。わたしはそう思った。女の行いこそがまさにいやがらせに他ならない。いやがらせを受けているのは、わたしなのだ。そして、わたしは女からの電話を待ち受けた。言い返してやるのだ。しかし、そうしていると、電話はかかってこない。気付くと、わたしは電話をかけていた。適当な番号だ。女の番号などわからない。電話帳を開き、適当な番号にかけた。電話に出たのは、若い男のようだった。
「いやがらせをやめてもらえませんか」とわたしは受話器に向かって言った。その日を境に、わたしに女から電話がかかってくることはなくなった。

No.314


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