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翼を持つもの

 落下する夢を見て、彼は目覚めた。あのビクッとなって起きるあれだ。まだ、夜深い時刻であった。落下は夢であったが、恐怖は現実のようだった。闇の中、彼は自分の鼓動で身体が揺れるのを感じた。心臓はその命の危機を現実として受け止めている。額の汗を拭った。落下するまでの夢がどんな夢だったのか、正確には覚えていなかった。残っていたのは、最後の落下する感覚のみである。あの、どうしようもない無力感。
「どうしたの?」と、彼の傍らで眠っていた女が目を覚まして尋ねた。身を起し、明かりをつける。
「なんでもない」と、明かりのまぶしさに目を細めながら彼は答えた。
「なんでもない、って表情じゃないわ」
「墜ちる夢を見た」
 女はクスリと笑った。「あなたには翼があるじゃない」と、女は彼の裸の背中に手を回して、そこから生えた翼をそっと撫でながら言った。そこには一対の、白く大きく力強い翼が生えていた。鳥の翼のようなそれだ。「あなたが墜ちるなんてことはないわ。だって、もしそんなことになっても、これを使って飛べばいいんだもの」
 彼はそれを一笑に付した。
 彼は飛んだことがなかった。それを試してみたことすらなかった。その背中の翼が、宙に飛び出した彼を支えることができるのか、彼は知らなかった。誰一人として、彼に飛び方を教えるものはいなかった。なぜなら、翼を持つものは彼ひとりしかいなかったからだ。彼の両親も、祖父母も、翼を持たなかった。親族を見渡してみても、翼を持つものはいなかった。あまつさえ他人にそれを見出すことなどさらにありえなそうだった。人々は彼の翼を物珍しそうに見るだけだった。彼はその視線を厭った。
「みんな君を羨んでいるんだよ」と言う人もいた。
「なぜ?」
「そんな翼があれば、自由自在に飛べるだろう」
 それがその人の本心だと、彼は信じなかった。彼にとって、その翼はただの重荷に過ぎなかった。必要のない体の一部に過ぎなかった。そんなものは無くて構わないと思っていた。翼など無く、ごく普通の姿であればどれほど良かっただろう。だから飛べないのだ、と彼は思っていた。飛び方を知らず、飛ぼうとも思わない。だから、飛べないのだ。彼は自分が飛びたいのかどうか知らなかった。彼は遠出するときは電車やバスに乗るし、近所のコンビニまででも歩いて行った。人々は好奇の目で彼の背中を見る。そんなものは彼には慣れっこである。飛べるが敢えて飛ばないのだ、とでもいう風に装って、そんな視線をやり過ごしていた。
「確かに俺は墜ちることなんてないな」と彼は女に聞こえないように呟いた。「飛ぼうとしなければ、墜ちることもない」
 彼はまた夢を見た。色つきの、映画のような夢だった。
 彼はベランダから下を見下ろしていた。かなり高い階に彼はいた。下にいる人間たちは、虫けらとまではいかなくとも、現実感の薄らぐ程度に小さく見えた。ジオラマの中の人形のようだった。九階か、十階といったところだろうか。下を見下ろしていて、彼は気づいた。人が倒れている。頭から血を流しているようだ。彼はすぐに悟った。「ああ、あいつは飛ぼうとして墜落したのだ。なんて馬鹿な奴だ。飛ぼうとなんてしなければ、そんなことにはならなかっただろうに」
 倒れている人間の背中には、白く大きな翼が生えていた。彼は妙な不安に駆られた。それは彼の厭うそれのようだった。翼を持つもの。それは誰だ?鼓動が高鳴る。彼はその倒れている人間の顔を確かめようと、ベランダの欄干から身を乗り出した。
 そこで彼はバランスを崩し、真っ逆さまに堕ちて死んだ。

No.359

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