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ファストフードラブ

 少年は早朝の町を足音を忍ばせてゆく。少年の生まれ育った町はさびれた漁師町だ。両脇に軒を並べる商店はことごとくシャッターを下ろし、眠りについている。
 町の朝は早い。漁港へ向かう人々とすれ違うたび、少年は何か咎め立てされるのではないかと一瞬身を強ばらせた。誰もがたいていは顔見知りで、すれ違う中には少年が知っている顔がいくつもあったし、級友の父や母と朝の挨拶を交わすこともあった。少年はできるだけ不審を抱かれないようにと細心の注意を払った。自分のその時刻に外出しているのは、ちょっとしたものでしかなく、いつもの自分と変わらないのだというように。内心は穏やかではなく、心ははやり、心臓は早鐘のように打っていた。少女が駅で少年を待っている。
 きっかけは前日のテレビ番組だった。少年と少女はぼんやりとそれを見ていた。少女の家は裕福で、テレビがあった。少年の家は貧しく、テレビがなかったから、少年はテレビが見たいときには少女の家に行った。少年と少女が仲を深めたのは、もしかしたら、テレビがあったからなのかもしれない。その番組で取り上げられていたのは、都会に新規開店したファストフード店についての話題だった。ハンバーガーがまだ物珍しかった頃のこと、外国の匂いを醸し出すそれの味を、誰ひとりとして想像できなかった時代、当然少年はそれを見たこともないし、少女だってそうだった。それは少年と少女の住む町からは遥か遠くの出来事であり、彼らの口に入るのはその土地で水揚げされた魚介類であり、母の作った味噌汁であり、祖母の漬けた漬物だった。そのファストフード店は、彼らの町にはいつまでたっても出店しないだろう。少なくとも明日明後日にはできないだろうし、数年後だってわからない。新しいものがやってくるまでに、それほど時間がかかるほど、そこは僻地なのだ。
 少年はテレビに映し出されたものは自分とは関係のないものだと感じていた。ぼんやりと、レポーターがかぶりついたハンバーガーを見るともなく見ていた。
 その少年の隣で、少女がポツリと洩らした。
「これ、食べてみたい」
「じゃあ、食べに行こう」少年は反射的に言った。少年は少女の願いは全て叶えてやろうと決めていたからだ。テレビが見たかったのがきっかけでも、少年の少女に対する思いは本物だった。「行こう」
 と言ったところで、都会は彼らの町から遠く、何度も何度も電車を乗り継いでやっと辿り着けるのだ。始発で出ても、帰って来られるのは夜遅くになるだろう。彼らの親たちもそんな遠出にいい顔はしまい。彼らはまだ年若い。それに、少女の親は少年がテレビを見るために少女の家に足繁く通うことにすらあまりいい顔はしていないのだ。 
「行こう」
「でも」
「明日にでも」
 そしてふたりは始発で都会に向かうことにした。親たちには黙ってこっそりと。始発でゆけば、日は跨がずに帰って来られる。それなら親たちもさほど怒らないだろう。
 駅の前に、少女がポツンと立っていた。少年に気づくと駆け寄って来て手を握った。
「待った?」
 少女は首を横に振った。
「誰にも気付かれずに来た?」
 少女は首を縦に振った。
「なんだか駆け落ちするふたりみたいだ」
 少女は微笑んだ。 なんだか自分たちがドラマか映画の主人公になったみたいな気分だった。
 ふたりは手を繋いでホームで始発電車を待っている。東の空が白みだした。
 のっそりとプラットホームに入って来た始発電車に乗り、そして、ふたりは駆け落ちした。



No.207


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