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代打

証言一
 彼の占めていた役職は極めて重要度の高いものでした。ええ、大きな責任のあるものですし、高い専門性が必要とされる仕事ですので。余人をもって代えがたい、とはまさに彼のことでした。彼以上にその役職をうまくやりおおせる人間は想像もできませんでしたよ。高い分析能力、抜群の行動力、やり抜くと決めた時の腹の座り方といったら、上司であるわたしですら彼を尊敬していました。そんな彼が、ある日、神妙な顔付きでやって来ましてね。ひとり、見知らぬ男を伴っていました。
「そちらは?」と尋ねると
「私の代打です」との答えでした。それだけです。
 話が飲み込めないので詳しく聞こうとするのですが、彼はいまいちはっきりしません。とにかく、代打が代わりを務めるから心配するな、この代打であれば、しっかり仕事をこなせるとの一点張りです。そして、その男をひとり残して彼は去って行ってしまいました。いくら引き留めても聞く耳を持ちません。やむを得ないので、男に仕事を任せることにしました。ええ、男が本当にちゃんと仕事ができるのか、それは半信半疑ですよ。しかしながら、彼はいい加減な人間ではありませんでしたから、彼が大丈夫だという、この代打の男ならとも考えました。しかし、それでもやはりそんなに簡単にいくだろうか、とも思いました。そうしてしばらく迷っていましたが、こちらも覚悟を決めました。その代打とやらに、彼のになっていた仕事をやらせて身うことにしたのです。しかし、蓋を開けてみるとどうでしょう、働ける働ける、もしかしたら代打の男は彼よりも有能なのではと思うくらいです。彼ですか?さあ、あれから会っていません。仕事は代打の男がこなしますから問題ありませんしね。うーん、どうしているんでしょう?心配かって?いや、まあどこかで元気にやっていて、ひょっこり現れるでしょう。もしかしたら、代打の代打としてね。

証言二
 それは、ねえ、最初は違和感がありましたよ。いきなりそんなことを言われても、と思いましたよ。だって、夫が帰って来るなり「これは俺の代打だ。今日からはこの人を俺だと思え」なんていきなり言われても、はいそうですか、とはいきませんよ。夫のそばにはその、代打の人が立っていました。わたし、まじまじ見ちゃったんですけど、その人は微動だにしませんでした。顔色一つ変えません。わたしは訳がわからなくて、夫を問い質しても、いつもの調子で、「あぁ」とか「うん」とか、ちっともはっきりしたことを言いません。いつもそうなんです。わたしの話なんてちっとも聞いてくれなくて、全部自分ひとりで決めちゃうんですから。
「思えと言われても、そんなことできません」と言っても
「心配ない」の一点張り。
 その間、代打は傍観しているだけでした。ええ、何も言いませんでした。まあ、整った顔付きが印象的だったくらいですかね。落ち着いた物腰も魅力的だったかもしれません。
「何が不満なの?」と夫に尋ねました。きっといまの生活になにか不満があるからこんなおかしなことをしているんだと思ったんです。ところが「不満はない」、「そういう問題ではない」、と繰り返すばかり。そうこうするうちに、夫は出て行ってしまいました。すがり付いても振り払われました。それでも代打の方は見ているだけ。慰めの一言も無しでした。それどころか、「晩御飯は?」ときたものですから、本当なら頭に来て、ひっぱたいてもおかしくなかったのに、その時はなぜか、代打が言うことがもっともだと納得して「あっ、いま用意します」と答えてしまいました。いえ、それが自然で、そうすべきだったからだと思います。夫が出て行きましたが、その代打がちゃんといるのだから、何も悲しむことは無いのですから。夫を恨んでいるかって?まさか!別に特別な感情は持っていません。どこで何をしているか?さあ、わかりません。心配かと言われると心配な気もしますが、心配しても仕方ありませんし。

証言三
 私の代打が私の前に現れ、「私はあなたの代打です」と名乗った時、彼が何を言っているのか、ちっともわかりませんでした。自分の代わりが存在しうるなんて、考えもしないでしょう。でも、すぐにわかったんです。彼は完璧な代打です。だから、私は必要ないでしょう。


No.310

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noteに掲載したものしか収録されていません。順番も完全に掲載順です。
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