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秘密の彼女

「秘密よ」と彼女は耳元で囁いた。
「なにが?」と、ぼくは尋ねた。
「秘密」と、彼女は微笑むと、そのまま風のように去ってしまった。そよ風のように、サッと。
 ぼくは凡庸な人間だ。きわめて凡庸である。あるいは、ずぬけて凡庸、飛びぬけて凡庸、稀に見る凡庸とさえ言ってもいいかもしれないが、そうなると語義矛盾が生じる。とにかく、凡庸である。この言葉遣いを見ていただければそれも言わずもがなかもしれないが。
 凡庸なぼくには秘密が無い。それが凡庸であるが故なのかは定かではないが、それが暴かれれば身の破滅を招くようなものや、世界を滅亡させてしまいかねないようなものを、ぼくはこの身の内に抱えていないのだ。それは凡庸なぼくにとってはいささか荷の重いものであり、そういう意味では、ぼくは凡庸であるがゆえに秘密を持たないことになる。いや、秘密を持てないと言った方がいいか。
 もちろん、人に憚られるようなあれやこれやはたくさんある。しかしながら、それは秘密ではない。露見すればぼくは赤面するだろうが、それだけである。あるいは多少なりとも非難されるようなこともあるかもしれないが、それだけである。それは秘密になりえない。
「秘密よ」と彼女は耳元で囁いた。
「なにが?」
「わたしのこと」と、彼女は微笑むと、サッと身を隠した。
 だから、彼女のことは秘密で、それについては語られない。なぜならそれは秘密だから。しかしながら、それは彼女の秘密であり、ぼくの秘密ではない。ぼくの秘密ではないが、彼女の秘密が露見しないように協力するのにぼくはやぶさかではない。ぼくは彼女に好意を持っているからだ。あるいは、彼女の秘密に。なにしろ、それはぼくには分不相応なものであり、ぼくは逆立ちしてもそれを手に入れる事はできないであろうからだ。それならば、他人の秘密を守る手助けをしようと考えても不思議はないだろう。もしかしたら、ぼくの彼女に対する好意のおおもとは彼女の秘密に対する憧れなのかもしれない。まあ、好意なんてものは往々にしてそういうものだろう。
「秘密よ」と彼女が耳元で囁いた。
「誰に?」と、ぼくは尋ねる。
「誰にも」と、彼女は微笑み、物陰に身を潜める。
「誰と話していたの?」と、友人がぼくが尋ねる。
「いや、誰とも話していないよ」と、ぼくは答える。
「話し声がしたけど」と、友人は訝しむ。
「気のせいじゃない?」と、ぼくは平静を装いながら答える。
「いや、気のせいじゃないよ。絶対話し声がした」と、友人は言う。
「ひとり言だよ」と、ぼくは観念したみたいな顔で言う。「ちょっと、恥ずかしかったから」
「なんて言ってたの?」と、友人は興味深そうに尋ねる。
「秘密さ」
 とはいえ、それはぼくの秘密ではない。あくまでも彼女の秘密であり、ぼくはその代行者に過ぎない。彼女の秘密を守るために、ぼくはそれを秘密にしているのだ。
「秘密よ」と彼女が耳元でささやいた。
「どうして?」
「どうして?」彼女は笑う。「秘密は秘密」
「わけがわからないよ」と、ぼくは口をとがらせる。
「秘密は嫌い?」と、彼女はぼくの顔を覗き込む。
「君は」と、ぼくは言う。「なんだって秘密だ」
「そうだね」と彼女。
「秘密なんて大嫌いだ」と、ぼくは言う。
「そう」と彼女は悲しそうな顔をして見せる。そう、そういう顔をして見せているだけだ。彼女の本心はわからない。「それは残念」
「嘘」
「ホント?」
「秘密さ」と、ぼくは言った。


No.513


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