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彼女を傷付けたのは真実だった

 ぼくは激怒した。彼女が傷付けられたからだ。
 彼女を傷付けたのは真実だった。しょうしんしょうめいのしんじつ。どこから見ても傷ひとつないような、完全無欠の真実だ。それがどうした、と、ぼくは腹を立てた。なぜなら、彼女が傷付けられたからだ。彼女はさめざめと泣いていた。打ちひしがれ、立ち上がることなどもう二度とできないのではないかという有様だった。なんてかわいそうなんだろうと、ぼくは思った。泣く彼女の姿は完全無欠に可哀そうで、不憫で、ぼくの怒りに火を着けるのに充分すぎるくらい充分だった。ぼくは激怒した。
 そこでぼくは復讐をしに行くことにした。復讐、といって、何をどうすればいいのかはわからない。ぶん殴るのか、蹴っ飛ばすのか、担ぎ上げて放り投げるのか、それとも面罵するのか、怒鳴りつけるのか、侮辱するのか、あるいはそのすべてか。彼女がされたことをそのまましてやればいいのか。ぼくは彼女が真実に何をされたのかを知らなかった。そんなことはどうでもよかった。彼女が傷付いているという事実だけが重要なのであり、それ以外はどうでもよかった。そもそも、復讐なんて、そんなことをして彼女が喜ぶかどうかも知らない。とにかく、彼女が傷付いたままでは、ぼくの気が収まらないのだ。あるいはこうも言えるだろう。ぼくは彼女のために復讐をするのではない。それはあくまでも自分のためなのだ。傷付けられた彼女をそのままにすることに気が収まらない自分のための復讐、自己中心的?あまんじてそのそしりは受けよう。
「彼女を傷付けたな」と、ぼくは真実に言った。「許さん!」
「ふん」と、その真実は鼻を鳴らした。いかにも偉そうな態度で、それだけでも癪に障る。「俺は真実なのだ。真実によって傷付く奴の方が悪い」と真実の奴はその態度そのまま偉そうに言う。
「なんだと?」ぼくは唸った。
「なら、なにかね?俺が嘘偽りであった方が良かったかね?真実でなく、嘘偽りならば、その方が良かったとでも、お前さんは言うのかね?」
「そういうことを言っているんじゃないんだ!」ぼくは怒鳴った。ぼくの声が虚しく響いているであろうことはぼく自身にもわかっていた。
「嘘偽りこそが人を傷付けるだろう」真実は言った。「違うかね?嘘に騙され、傷付く人は大勢いるはずだろう?真実こそ正しく、嘘は間違っているだろう。違うかね?」
「違う!そういうことを言っているんじゃない!」
「なら、なんだね?」真実は偉そうである。腕を組み、頭をのけぞらせ、こちらを見下ろしている。これほどまでに大きな真実だったのかと、ぼくは縮こまる。あるいは、ぼくがどんどん小さくなっていたのかもしれない。真実を前にして、できることと言えば委縮することだけなのだろう。
 ぼくは何も言い返せなかった。確かに真実は正しいのだ。なにせそれは真実なのだから。しょうしんしょうめいのしんじつ。完全無欠の真実。だけど、そんなことを言われてもぼくの腹の虫は収まらない。ぼくにとっては彼女が第一であり、正しさなどは二の次なのだ。それに、彼女が深く傷付けられているということもまた真実なのだ。彼女は間違いなく傷付いている。
「嘘偽りであっても」と、ぼくは真実に言った。意を決して言った。思い切って言った。「彼女が笑ってくれるなら、ぼくはその方がいい」
 こうして、ぼくは小説を書き始めた。

No.369


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