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ほんの、ささいな、プロポーズ

 その頃のぼくは、まだほんの子どもだったので、自分の前方には見渡す限りの地平が広がっているものと思っていた。無限の可能性。なんて月並みな表現。そんな月並みな表現が似合うくらい月並みな感覚。なろうと思えば、宇宙飛行士にだって、大統領にだってなれる気がしていた。もしもそうならなかったとしたら、そうなろうと思わなかっただけ、そんな気がしていた。遅刻ばかりで、叱られてばかりの落第生が何を言うか、と、ぼくがそんなことを思っていることを周囲の人が知ったら思ったかもしれないけれど、多くの偉人伝は偉人たちが最初から偉人だったわけではないことを教えてくれていた。だから、ぼくももしかしたら。
 少なくとも、そういう感覚を持てていた。可能性のある可能性。つまるところ、ぼくは若かったのだ。それに付随して、当然のことかもしれないけれど、大人が嫌いで、それでいて大人の真似事をしてみたりしていた。煙草をくわえたり、キスをしてみたり。若かったのだ。
 海岸の方まで車を走らせた。ぼくは運転免許を取り立てだった。父親のピックアップトラック、勝手に乗り回したことがバレたら殺されるかもしれないけれど、そんなこと知ったことか、そんな態度がかっこいいと思っていた。助手席には彼女がいた。夏はもう終わりかけていて、海に人影は疎らだった。バカンスの季節は終わりだ。町を包んでいた狂騒の熱も、じきに冷める。ぼくらの町に平穏が帰ってくる。死んでしまいたくなるほど退屈な町、うんざりするくらいなにもない日々。まるで永遠みたいな午後。ぼくと彼女は、車のボンネットに腰掛けて波を眺めていた。波は次から次へと打ち寄せていた。一つとして同じ波はなかった。その不思議さに、いつまでもそれを見ていられそうだった。特にやるべきことも無かったし、やりたいことも無かった。ただ、そこにいたかったのだ。ぼくと彼女はそんなことを話した。それで不満は無かった。むしろそれで満ち足りていた。いま思うと、なぜそれで充分だと思えたのか首を傾げたくもなるけれど、その時はそれでよかったのだとしか言いようがない。ぼくたちは満ち足りていた。
「いつか、何年かたったら」と、ぼくは言った。「あの頃は良かったって、いまのことを振り返るのかな?」不意にそんなことが頭をよぎったのだ。
 彼女は肩をすくめた。相変わらず波は打ち寄せていた。ぼくは彼女が何か言うのを待ったが、彼女は何も言わなかった。
 しばらくそうして眺めていた。そして、彼女は突然口を開いた。
「ねえ」と、彼女は言った。「あたしたち、結婚しない?」
「いいね」と、ぼくは答えた。そして、キスをして、愛を囁いたりした。
 結局、ぼくは彼女とは違う女性と結婚した。そこにいたるまでには様々なことがあったのは言うまでもないことだろう。あるいは、その事実を子どもだったぼくが知ったら少なからぬ、あるいは徹底的な抗議にあうかもしれない。しかしながら、それはそうなったのだ。誰が悪いというわけでもない。ぼくにできるのは、散って行く花びらの軌跡を説明することであり、なぜそれがそのように散るのかはぼくには、いや、誰にもわからないのだろう。別にそれに不満は無い。そして、予想通り、いまぼくはあの頃は良かったと思ったりする。
 あの頃のぼくたちが囁き合った愛にこそ、たぶん本当の愛があったのではないかと、思う。そんなものだ。間違っていたとしても。
 あの頃、ぼくはまだ子どもで、前方には無限の世界が開けていた。


No.449


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