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だれかからのハガキ

 ハガキが届いたけれど、それに書かれた字は滲んでしまっていて、とても読めるような代物ではありませんでした。雨?見上げた空は雲一つ無い青空。雨で濡れてしまったわけではなさそうです。誰かが水たまりにでも落としてしまったのか、誰かがそれの上にコップの水をこぼしてしまったのか、それとも、そもそも濡れて滲んでいたのか。理由はわからないけれど、文字は滲んでいて、様々な想像ができたとしても、読めないというそれが現実。
「よく届けられましたね?」と、それを届けてくれた郵便配達夫に尋ねると、
「ほら」と、わたしが手にしていたハガキを裏返しました。「宛名だけは滲んでいなかったんですよ」
「差出人は読めないのね」差出人の名前も、やはり滲んで判読できません。そのぼんやりとした輪郭からなにか読み取れないものかとじっと見たけれど、それはインクのしみを見つめるのと大差ありません。
「そうですね」
「何か手がかりはありませんか?」と尋ねても首を横に振るばかり。
「ぼくは届けろと言われた場所に届けるだけですから」と、郵便配達夫は言いました。
「誰からなのか、なんと書かれていたのかもわからないと、気になります」
「そうですね」と配達夫。「でも、どうしようもない」
 ハガキを持って部屋に戻ると、母がカウチで横になっていました。目を閉じて、うたた寝をしています。カウチの端に腰を下ろし、母にハガキのことを話しました。
「読めるのは宛名だけなの」母の返事はありません。「誰から、何を伝えようとされたのかしら?」
 母は寝言のような調子で「誰かが」と言いました。「あなたに何かを伝えたかったのよ」そして寝返りを打ちました。カウチから身体が落ちてしまうのではないと見ていてヒヤヒヤします。落ちたところで、大した高さではありませんから、大怪我をするわけはないし、かすり傷さえ負わないでしょうけど、落ちるのではないかというのは不思議とヒヤヒヤするものです。
「その誰かが」と、わたしへため息。「知りたいの」
 母はもう寝息を立てていました。わたしは諦めて立ち上がり、夕食の支度を始めました。
しばらくすると、母が起きてきました。眠たそうな目をしています。
「なに?」
「ラザニア」
 二人で食卓を挟み、食事を摂ります。その食卓には、例の誰かからのハガキ。 誰からなのか、なにを伝えようとしているのか、なにもわからない、ただの紙切れと変わらないハガキ。いや、「なにか」を伝えようとしているように思えるから、紙切れよりもタチの悪いなにか。
「誰からなのかしら」と、わたし。
「気になるわね」と、母。口ではそう言っているけれど、ちっとも気になってはいなさそうな口ぶりです。
「返事を待っているかもしれない」 と、わたし。
「重要なことなら、また送られてくるんじゃないかしら」と、母。
「そうかしら?」
 母のその言葉を信じたわけではなくて、なにもできやしないから、わたしは待つことにしました。そうして、その後、幾日も経ちましたが、ハガキはもう送られて来ません。誰からも。ただの一通ですら。
 郵便受けの前で待ち構えているわたしを見つけると、郵便配達の人は肩をすくめるのでした。ちょっと申し訳なさそうに、言い訳をするように。「だって、どうしようもないでしょう?ぼくの仕事は届けろと言われたものを届ける場所に届けるだけなんですから」確かに、届けるものがなければ届けられません。別に、わたしだって彼を恨んでなんていません。
「こちらから」と、そんなわたしを見て母は言いました。「送ってみれば?」
「だから」とわたしはため息をつきます。「誰から送られて来たのかわからないのだから、送りようがないじゃない」
「そうだったわね」
「どうしよう?」
「もう何か伝えたいことのあった」と言いながら母はカウチに横になりました。「誰かがいたってことだけでいいじゃない」
 わたしが何か言う前に、母はすでに寝息を立てていました。わたしの言葉は、母には届きません。
 この世界のどこかに、わたしになにかを伝えたい誰かがいる。その人がいて、わたしがいる。世界はもしかしたらとても美しいものなのかもしれません。


No.302

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