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睡魔がくる

「手には三叉矛、つり上がった目、耳まで裂けた口、とがった耳、ヒヒヒという気味の悪い笑い声、悪魔に違いないと思ったら睡魔でした。尻尾が生えているし、足はヤギの足です。
『俺は睡魔だ。ヒヒヒ』睡魔は言いました。正確に言うと、この時私は睡魔が睡魔であることがわかりました。睡魔を見たのは初めてでしたし、そもそもそれまでに悪魔の姿をこの目で見たことが無かったので、それが悪魔なのか、そしてさらに言えば睡魔であることはわからなかったのです。あるいは、睡魔が自分で睡魔であると名乗ってくれて助かった部分もあるかもしれません。もしも睡魔が名乗らずにいたら、私はそれが何者なのかわからないままだったでしょうから。
『睡魔が何の用だ?』私は言いました。その時私は仕事中で、それもすさまじく忙しく、思うようにことが進んでいなかったのでイライラさえしていました。普通、ちょっと考えればわたしのその様子からそうした事情を察し、声を掛けようとは思わなそうなものですが、相手は睡魔、悪魔の一種です。悪魔に常識を求めるなんて馬鹿げたことでしょう。そこで私ははっきりと言いました。『忙しいんだ。あっちへ行け』
『まあまあ、そう邪険に扱わないでくれよ』睡魔は言いました。『焦っても良いことはない。ヒヒヒ。急いてはことを仕損じるだぜ』
『うるさい!あっちへ行け!』私は手を振り、追い払おうとしました。その時の私なら、絶世の美女が相手でもそうした対応をしたことでしょう。それほど忙しかったし、なによりも私は仕事熱心なものですから。ええ、そうです。絶世の美女が水着姿でしなだれかかってきたとしても「あっちへ行ってくれ」とハードボイルドに言ったに違いありません。それが、相手が睡魔となればなおさらです。
『まあまあ』ヒヒヒ。『話はすぐに終わりますから』
『何か用件があるなら早く用件を言え』私は言いました。仕事に集中しようとするのですが、睡魔の存在が邪魔で集中できません。イライラが募るばかりでした。後ほんの少しで、私は睡魔をぶん殴ってもおかしくないほどでした。
 ヒヒヒと笑ってから睡魔は言いました。『いやね、あんたを眠らしに参ったんですよ』
『さっきも言ったように』私はため息をつきました。仕事の手を止め。大きく息を吸いました。自分を落ち着かせようとしたのです。『私達は忙しいんだ。眠っているような暇はない』
『忙しい忙しいって、何がそんなに忙しいんです?』
『それは』と私は少し言い淀みました。確かに、言われてみると何がそんなに忙しいのかわからなかったのです。いや、仕事です。仕事で忙しかったのです。しかしながら、私の脳裏にひとつの疑問がよぎりました。『本当に私は忙しいのか?私は何をしているんだ』しかし、私は頭を振り、気を取り直し『忙しいものは忙しいんだ』と答えました。それが答えになっていないのは百も承知です。しかし、そう答えるより他ないのです。もしかしたら、私は仕事などやっていなかったのかもしれない。そんな風に思い始めていました。
 睡魔もそれはわかっていて、ヒヒヒと、それまでよりもさらに侮蔑的に笑っていました。
『だいたい何故』私は睡魔に言いました。とにかく、その睡魔を追い払おうと決めたのです。自分が何をしていたのかは、それからゆっくり考えればいいじゃありませんか。そして私は尋ねました。『お前は私を眠らせようとするんだ?それでお前にどんな利益がある?』
『あんたには理解できないかもしれないが』睡魔は咳払いをしました。『この世界は複雑な構造体なのだ。あんたが眠るというのは些細なことのように思えるかもしれないが、それはこの世界全体を左右するほどのことなのだ』
『本当か?信じられんな』私は疑いの目を睡魔に向けました。
『まあ、そんな可能性もあるということだ』睡魔は目をそらしました。明らかに自信なさげな様子です。
『さっき言ったのは嘘だろう?』私は詰め寄ります。
『嘘じゃない。可能性としてはある』睡魔は言いよどみながらそう言います。
『それでも、お前に眠らせられる理由にはならない』
『それが俺の存在意義なのだ』
『ほら、みろ。世界が云々言っていたが、結局自分のためだ』
 こんな問答が延々と続けられ、さすがにくたびれてきた頃に目が覚めたのです。どうやら、全ては夢であったようです。
 そして、私は自分のベッドの脇にある時計を見ました。心臓が凍ったと思いましたよ。家を出るべき時刻をとうに過ぎていたんです。でも、悪いのは全部睡魔の奴なんです。私にはどうしようもなかった。もらい事故のようなもの、不可抗力だとは思いませんか?」
「遅刻の言い訳はそれで終わりかね?」

No.343

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