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千里の先を見つめる眼

 青年はその日を境に不幸になった。その日以前、青年は幸福だった。しかしながら、青年がいま、その日以前を振り返ってみても、それは幸福な日々としてではなく、やはり不幸だったと思うかもしれないが、それはあくまでもいまから見た時の話で、その時点では青年は満ち足りていた。
「こんな幸せ者、世界中探したって他にいないね」と青年。いまとなってみると、若気の至り以外には聞こえないが、その頃は本心からそう言っていた。
 確かに面白味には欠けるが確実な仕事、青年を無条件に受け入れてくれる家族、気のおけない仲間たち、可愛らしい恋人、その他諸々。田舎で、刺激はないだろう。しかし、それも刺激を知る人間であれば思うこと。半径数メートルの世界が青年の全てであり、それ以外を知ることはなかったし、知ろうともしなかった。なにせ満ち足りているのだから。それ以外を知ろうとする必要があろうか。
 こんな日々が永遠に続いてほしい、青年はそう思っていた。本心から。事実それは続いた。永遠ではなかったにせよ、それなりに。しかしながら、その日がやって来る。
 その朝、いつもと同じように青年は目を覚ました。
 いつもと同じだったのはそこまで。青年はすぐに自分の身に起こった異変に気付いた。
 目を閉じると、見たこともない風景が瞼の裏に浮かぶのだ。
 摩天楼、交差点を忙しく行き交う人々、甲高いクラクションが鳴り響いた。夢を見ているのではないか、と青年は思った。そうだ、これは夢の続きだ。次こそしっかり目覚めようと目を見開いた。
 自分の部屋の、いつもの風景、朝の日射しがカーテンの隙間から忍び込んできている。そう、これが現実だ。堅実な仕事、家族、友人、恋人、見慣れた景色。
 しかし、青年がまばたきをした瞬間、また見知らぬ風景がよぎる。今度はこの世のものとは思えないような美しい女が微笑みかけている。
 それは夢の続きなどではなく、確かな現実感を持っていた。
 青年は千里眼を手に入れたのだった。はるか遠く、青年とは縁のない世界を垣間見せる力を。まさに、降ってわいたように。
 それから青年は悩まされるようになった。まばたきをする度に瞼の裏に浮かぶ美しい人々、美しい物、美しい世界に。それは実に甘美な現実、美しく着飾った女たち、パーティー会場、煌めくシャンデリア、笑いあう人々、または大歓声、競技場のフィールドの上の戦士たちは英雄のように称えられている。さらにはロックスター、演奏に酔いしれる聴衆を見下ろす姿は神のように見えた。ありとあらゆる幻想が目の前に提示された。それも四六時中、まばたきをする度、目を閉じる度。
いつしか青年にとっての現実はどれだかわからなくなっていた。夢が現実に食い込み、現実が夢の真似をする。心はここにはなく、常に遠く離れたどこかにいた。触れられるものは色褪せてしまった。今やそれらはつまらないもの、退屈なものの代名詞になった。今度はそれが青年を悩ませる。煩わしくて仕方がない。あれやこれやを要求する、足枷以外の何物でもなくなった。絶交はむしろ好都合だ。せいせいする。別れ?どうぞご自由に。もっともっといいものを知ったいまとなっては、何の価値もない。青年はあっという間に孤独になったが、本人はそんなこと気にも留めなかった。
 そして、青年は不幸になった。失ったからではない。確かに失いはしたが、それは失う価値の無いものと青年の目には映っている。不幸なのは、手を伸ばしても触れられないこと。
 そして、青年は生まれ育った場所から姿を消した。しかし、誰もそれに気付かなかった。
 

No.377


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