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赦されるというのか

 荒い息をしていた彼の呼吸が、少しずつ弱まって来ていた。もう少しだ。もう少しで、彼は死ぬのだろう。もう少し。もう少し。
 奇跡的としか言いようがなかった。それは有り体に言って大惨事だった。誰も予測しなかったこと。惨事は誰も予測しないから惨事なのだ。もし予測できるのなら、誰もがそれを避けて通るだろう。突然に切断される日常、だからこそ、それは惨事なのだ。わたしたちの日常は突然に切断された。明日も今日と同じような日々が続くと思っていたのに、そうはならなかった。わたしと彼を除くそこにいたすべての人の日々はそこで断ち切られ、そしてまた、それは彼らの家族や友人たちにとっても同じで、その家族や友人たちにとっては彼らのいない日々が始めるのだ。わたしと、彼だけが、その惨事の生存者だった。奇跡的な生存者。そうであっても、日常は断ち切られるだろう。
 いや、わたしの日常はすでに断ち切られていた。彼の手によって。彼の悪事、彼の悪意によって。それはわたしの日常を断ち切った。だからこそ、わたしは彼を殺そうと思っていたのだ。それで日常が取り戻せるわけではない。一度失われた日常は二度と取り戻せない。それでも、わたしは彼を殺さなければならなかった。そうでなければ、わたしの気が済まなかったから。
 もしかしたら、何が起こっていて、彼がわたしに何をしたのか知りたいと思うかもしれない。でも、それはやめておこうと思う。大惨事は筆舌し難いものであり、彼のわたしに対する所業は思い出したくもないものだったからだ。申し訳ないけれど。
 大惨事を生き残ったのはわたしと彼だけだった。わたしたちの周囲には悲惨な死体が転がっていた。
「誰か!」と、わたしは叫び「誰か、生きている人はいませんか?」という呼び掛けに答える声は無かった。うめき声さえ聞こえない。少し歩いて生存者を探したが、すぐに諦めた。人の形を留めていない死体が多く、怪我はしたが歩き回れている自分が奇跡的に助かったのだとわかった。生存者はいないのだ。例外は、虫の息の彼だけ。
 彼の傷の深さは素人目にも明らかだった。手当が遅くなれば、彼は死ぬだろう。間違いなく。果たして、助けは来るだろうか?その気配すらない。わからない。
 わたしはその状況をどう考えればいいのかわからなかった。わたしは自分の手で彼を殺そうと思い、そのために彼を尾行していたのだ。彼が生きていることを喜ぶ自分がいるのは確かだった。殺したいと思っていた相手の生存を喜ぶのは少し妙な気分だった。しかも、彼は虫の息でわたしの目の前に横たわっているのだ。殺すのは容易いことだ。しかしながら、それはわたしの望んだ殺し方だっただろうか?わたしの恨みは深かった。彼をひれ伏せさせ、怯えさせ、命乞いをさせて、それを無視し、罵り、脅し、そしてできるだけ苦しませて殺すことこそ、わたしの望んだことだった。彼はそうされてしかるべきことをわたしにしたのだから。それでもお釣りが来るくらいだ。しかし、わたしの目の前で虫の息の彼を殺すのは、むしろ苦しみからの解放ではないか。
 わたしは、荒い息をし、横たわる彼を見下ろし、迷っていた。自分がどうすべきなのか。なにをしても後悔しそうな気がした。あるいは、人生におけるどんな選択もそうなのかもしれないけれど。
「あなたは殺されても仕方ないことをした」わたしは横たわる彼にそう言った。意識の混濁している様子の彼には聞こえていないだろう。「殺そうと思っていた」
 殺そうと思っていた。それはその瞬間すでに過去形の思いだった。もしかしたら、わたしは怖じ気づいたのかもしれない。自分の手を汚すのが怖かったのかもしれない。
「あなたが生きるか死ぬのか、神様に決めてもらう。神様が、あなたを赦すのかどうか、見てみましょう」そういうと、わたしは彼のかたわらに腰を下ろした。そして、彼の息をただ聞いていた。それが止まるのを待ちながら。
 最初、わたしはそれを数えていた。彼が息を吸い、吐くのを。そうしているうちに、自分自身の傷が痛むのに気づいてしまい、数えるのをやめた。わたしも無傷ではない。命を落とすほどではないにしても。それで、わたしはただ彼の息を聞いていた。彼の息。彼が生きている証明。
 どのくらいの時間がたったのだろう。わたしも朦朧としていたのだ。人の声がして、わたしはハッとした。体が痛む。寒気がする。
「いたぞ!」
「生存者いました!」
「早く!」
「もう大丈夫ですよ」わたしは曖昧に頷く。
「生存者二名!」
 そうか、と、わたしは思う。彼も助かったのだ。神様は、彼を赦すというのか。
 わたしは毛布に包まれ、救助隊員の腕に抱きかかえられた。もしかしたら、わたしの新しい日常が始まるのかもしれない。

No.412


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