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天国の扉

 どうやらぼくは死んだらしい。その時の状況をうっすらと覚えているけれど、なかなかに残念な死に方だった。まあ、そういう星のもとに生まれたのだろう、仕方がない。思ってみると、ツキに見放された人生だった。まあ、仕方がない。死んでしまうと、思いのほか執着というものが無くなるようだ。肉体を失い、それを維持するという大仕事が無くなったからだろう。考えてみると、どれだけ満腹になってもいずれ腹がすくし、熟睡して目覚めたとしてもいずれ眠たくなる。それこそ、賽の河原かシーシュポスのようなものだ。あるいは、それらは生きることの隠喩なのかもしれない。尽くされ得ぬ徒労。生きるというのはなかなかに疲れるものなのだ。そして、それを失ってみれば、その徒労からは解放される。それでいて怨念や執念のようなものを維持できるとしたら、それはよほど強い思いなのだろう。恐ろしいと同時に、少し羨ましくすらある。
 ぼくは階段を登っている。天に向かって一直線に伸びる階段だ。階段があるだけで、手すりもなければ柵もない。階段のふちから下を見ると、雲が見える。風はあるが、肉体が無いのでそれに押されることもない。もちろん、恐怖心もない。ためらいなく、そこから飛び降りられそうで、そういう自分がむしろ恐いほとだ。くたびれることもないから、淡々と、黙々と階段を登るだけだ。
 昼と夜が何度も交代した。太陽が訪れ、去っていき、星々にその場を明け渡す。高高度から見る地平は、線ではなく曲線だ。地球は丸いのだ。雲の下では人々がその営みを続けているのだろう。その高さから見ると、それはほんの些末なことのように思えた。ひとりひとりの悲しみや辛さは、どれも些末ではありえないが、それは些末なのだ。残念ながら。空の青は、登れば登るほど濃くなっていく。宇宙の漆黒が近いのかもしれない。そこで、不意に扉に行き当たった。なんの変哲もない、どこかの会議室にでもつながっていそうな扉だ。天空高くにあるにはあまり似つかわしくない。その前に、青年がいる。美しい青年だ。
「やあ」と、青年はぼくに声をかけた。
「やあ」と、ぼくは返した。口を開き、声を出しはしたが、肉体の失われたぼくのそれは空気を震わせているのではないらしい。ちょっと妙な響き方をした。
「ふふ」と、青年が笑った。
「ふふふ」と、ぼくも笑った。
「よく来たね」と、青年は言った。そして、階段に腰掛けた。
「君は」と、ぼくは言いながら青年の隣に腰掛けた。自分の登って来た階段が足元に伸びている。確かに、よく来たのかもしれない。「天使かなにかなの?」
 青年はさも驚いたという顔をしてから、声を上げて笑った。「違うよ。人間。君と同じ、死んだ人間だよ」
「とてもきれいだったから」
「ぼくが?」
「うん」
「お世辞?」
「ちがうよ」と、ぼくは首を横に振り、彼は「ふふふ」と笑った。
 ぼくは立ち上がると、扉を振り向いた。「これは?」
 彼も立ち上がった。「天国の扉さ」
「天国?」
「そう」と、彼は頷いた。
「ぼくは天国に行けるの?」
「そうだよ」と、彼は微笑み、頷いた。「死んだ人間はみんな天国に行ける。どんな極悪人でも」
「なんだ」ぼくは少しがっかりした。地獄でなく、天国に行けるのはなんだか認められたような気がしたのに、そういう振り分け自体がないのだ。「じゃあ、みんな天国に行くんだ」
「いや」と、彼は肩をすくめた。「そうとも限らない」
「どうして?」
「行かないこともできるんだ。いま来た階段を引きかえせばもう一度生まれることができる」と、青年は静かに言った。「一度天国に入れば、そこから永遠に出られない」
「でも」と、ぼくは言った。「天国なんだろ?」
 彼は肩をすくめた。「そうだね。天国だ」
「引き返す理由なんてある?」と、ぼくは尋ねた。
「どうだろう」と、彼は苦しげに答えた。「君はどう思う?」
「天国に行けるなら」と、ぼくは言った。「それで最高じゃない。迷う必要なんてない」
「本当に?」
 ぼくは自分の人生について考えた。周囲に気を遣い、人の目を気にして、思うようにできない人生だった。失敗するのを恐れ、躊躇い、挫折する前に諦めて、ただただ怒られないようにその日一日をやり過ごすだけの人生だった。そうして人生の貴重な一日を、ただやり過ごすためだけに使っていたのだ。本当にやりたかったのは本当にそんなことだろうか?後悔がある?後悔しかない。やり直せるのなら、やり直したい。ぼくは天国の扉を見た。
「どう?」彼は尋ねた。「どうするの?」
「もう一度」と、ぼくは言った。強い決心を胸に。「生まれることにする。そして、全部やり直すんだ」
「そう」と、彼は微笑んだ。
「君は?」
「迷っているんだ」
「そっか」
 そして、彼に別れを告げ、登ってきた階段を降り始めた。それは、雄々しい決心を忘れてしまうには充分なくらいの長い長い階段だった。


No.549


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