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それぞれの死

 祖父が戦時中軍医として従軍していたのを知ったのは、祖父の葬儀が済み、遺品を整理していた時のことだった。
 屋根裏の奥、埃を被った柳行李の中に、その写真はあった。荒漠とした景色の中に佇む若者、モノクロで、色褪せているそれが祖父だということだった。年齢的にも、おそらく戦争に行っていたのだろうとは考えていたが、祖父はその最前線にいたのだ。しかし、祖父はその事、戦争について語ろうとはしなかった。実の娘である、わたしの母にも。祖父がそこでどのような体験をしたのか、知る者はいない。
 ならば、それはどのような語られ方をしてもいいのではないか。あるいは、それは記憶に対する冒涜と捉えられるのかもしれないが、そうした懸念も込みで、わたしはわたしの想像でその若い軍医を語ろう。
 彼の送られたのは最前線であったため、彼は多忙を極めた。昼夜を問わずに怪我人や病人が運び込まれ、その対応にあたらなければならなかったのだ。戦争なのだから怪我人は当たり前で、しかも最前線だ、補給もままならず、誰もが腹を空かせていて栄養状態は極めて悪かったし、衛生的という言葉を期待すること自体が馬鹿げているだろう。感染症はすぐに蔓延し、そのために命を落とす者も多かった。包帯もなければ薬もない。あるのは彼の執念のみだった。彼は人を救うために医師を志したのだった。
 ある日、彼の元に病人が運び込まれてきた。額に脂汗を浮かべたその男は、身なりからして捕虜であることがわかった。彼の両脇を挟むのは味方の軍服を着ている。彼よりもはるかに位階の高い軍人だ。
「こいつの命を助けろ」その軍人は言った。「絶対にだ」
 軍医はその言葉に感動した。戦争という非人道的な状況にあっても、その軍人が人間性を失わずにいるのだと思ったからだ。
 そして、それはそれまでの患者たちに対するとの変わらぬ熱意であるのだが、若き軍医は必死でその捕虜の男を看病し、快方に向かわせたのだった。
 その捕虜がどうにかひとりで歩けるようになった日、先だっての軍人がやって来て、捕虜を連れていった。彼の耳に入った噂では、軍人は捕虜を銃殺したらしい。なんでも、個人的な怨みがあったとかだったが、その詳しい事情まではわからない。
 しばらくして、軍人は軍法会議にかけられ、独断で捕虜を殺害したかどで死刑を言い渡されたそうだ。




No.907

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