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世界の秘密

 わたしの幼い頃を過ごしたのは辺鄙な田舎町だった。そこの住人は誰もが顔見知りで、良く言えば家族のような親密な関係があったが、言うまでもないかもしれないが非常に閉鎖的であり、ある意味では息の詰まる場所でもあった。わたしの父や母の世代まではなんだかんだそこで生まれたものはそこで一生を終えるものと考えられていた。隔世の感がある。わたしは自由に息がしたかったから、結局はそこを出ていくわけだが、それはまた別の話である。いまでは、わたしのような選択をするものは珍しくないし、親たちもそれを奨励さえしている。
 大きな商店のひとり息子で、わたしより一回り近く年かさのがあった。いまではスーパーマーケットだかになっているそうだが、その当時からなんでも商う店で、かなり羽振りも良かった。当然その息子が後を継ぐものだと考えられるだろうが、この息子、評判が芳しくなかった。
「あれはダメだ。なにしろ怠け者で」という評は彼の父親によってなされたものだが、これでもまだ穏便な方で、口さがない土地の人間は口も憚るような悪辣な表現でその息子のことを噂したものだった。
「アホ」
「脳無し」
「ごく潰し」
 これでもまだ穏便だ。ひどいものはここで書くのさえ躊躇わられる。
 実際の話、その息子が店の手伝いをするようなことはなかった。日がな一日軒先でぼんやり空ばかり見ている。なにをするでもなく、ただ空を見ているのだ。晴れの日でも、曇りでも、雨でも関係ない。その姿はむしろ気味の悪いくらいで、子ども連中は馬鹿にしながらも不気味がって絶対に近寄ろうとしなかった。しかしながら、わたしは人一倍好奇心旺盛な子どもだった。好奇心は猫を殺す。この持ち前の好奇心でひどい目に遭ったのも一度や二度ではないが、おそらく生来の性なのだろう。これは変えようがない。
 わたしは気になったのだ。彼が何を見ていたのかが。そして、恐る恐る軒先に座る彼に近づき、声を掛けたのだった。
「何を見てるの?」
 彼はぽかんと口をあけながらこちらを見た。わたしは自分の言ったことが彼に理解できたのかどうか自体が不安になった。話の通じる相手なのだろうか。どこか、目の焦点もあっていないような気すらする。
「何?」と、彼は言った。「君は誰だい?」と言う彼の声は、暗愚のそれではなく、上品で物静かで、知的だった。「ぼくに話しかける子どもがいるなんて、驚いた」
「何を見ているのか知りたかったの」と、わたしは言った。
「待っているんだ」と、彼は言った。
「何を?」
「世界の、秘密を」彼は声を潜め、そう言ったのだった。
「何、それ?」わたしがそう尋ねると、彼は肩をすくめた。「わからないの?自分で言ったんじゃん」
「一度だけ」と、彼は言った。「一度だけここで見たんだ。ここで、たまたま空を見ていたら、それが見えた。それを見た瞬間にわかったんだよ。それが、それだって」
「世界の秘密?」
「しっ」と、彼は唇に人差し指を当てた。「大きな声で言っちゃダメだ」
「なぜ?」
「聞いているかもしれない」
「誰が?」
「世界の秘密が」と声を潜め、彼は横目で空を見ながら言った。「ぼくらがそれを待っていることがバレたら、出てこないかもしれない」
「変なの」
「かもね」
「ねえ」
「なに?」
「どんなものなの、それ」
「それは」と、言って、彼は言うのを止めた。
「どうしたの?」
「言葉では表せないよ。言葉では言い表せないくらい、完璧で、美しかった。だからこそ、もう一度だけでもいいからそれを見たくて、ぼくはここでそれをずっと待っているんだ。他のことをしても何も手につかない」
 それからしばらくの間、わたしは彼と一緒にそこで世界の秘密が現れるのを待った。毎日のように通い、彼の傍らに座るようになった。好奇心旺盛なわたしである。それが、世界の秘密と彼が呼ぶものがどんなものなのか、一目見てみたかったのだ。もちろん、それは噂になり、親がわたしにそれを禁じるまでのことである。少なくとも、わたしがそこに座っている間には、世界の秘密を目にすることはできなかった。
 それから少しして、彼は風邪をこじらせて死んでしまった。実に呆気なかった。
 世界の秘密は、まだ秘密のままだ。


No.423


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