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煤だらけの町の君とぼく

 ぼくは君に言った。「君の愛には応えられないよ」
 君は悲しそうな顔をして、そしてその場を立ち去った。悲しそうな顔、だったと思う。正直なところ、表情はよくわからなかった。なにしろ、煤で汚れていて真っ黒だったからだ。
 それはなにも君に限ったことじゃなかった。ぼくらの働くその町は、何本もの高い煙突の立ち並ぶ町だった。そこからはいつも、昼も夜も関係なく、黒い煙がもうもうと上がっていた。それは空を覆い、町を漂い、全てを黒く染めた。その町の住人たちも例外ではない。老いも若きも、男も女も、誰もかれもが煤けていて真っ黒け、誰が誰だか区別をつけるのすらやっとというくらいだった。
 あの煙突は何だったんだろう?ぼくのしていた仕事はどういう意味を持っていたのだろう。煙突の立つ工場で、ぼくは働いていたわけだけど、自分がいったい何をしていたのか、ぼくにはわからない。右から来たものに部品を取り付け、左に回す。工場の中は、いつも耳が痛くなるような轟音がしていた。その中で、ぼくは何かを考えるのをやめて、右から左へとそれを処理していく。そんな日々だった。日々とすら呼べるのかどうかもあやしいものだ。その一日一日は他の一日と区別できる一日ではなかった。ある一日があり、それが繰り返されるような感じ。そこに流れはなくて、常に停滞していて、流れていくのは右から左に運ばれていく部品だけ。そんなある日、ぼくは君に愛の告白をされたわけだ。
 本当のことを白状すると、ぼくはそれが、君が、疎ましかった。なにしろぼくは、あの人に夢中だったから。その日、寝床に潜り込んで考えたのは、愛の告白をしてきたのがあの人だったらどんなに良かっただろうということで、君のことなんてちっとも考えなかった。一切、まったく。
 あの人だけは、真っ黒な町で唯一白く、きれいだった。なにしろあの人は、いつも鏡を見ていたから。すぐに煤けて汚れてしまうガラス窓や鏡をこすって、そこに自分の姿を映し出す。そして、いつも自分が美しいようにと、ホコリや煤を払うのだった。真っ黒に煤けて汚れた人たちの中にあの人が入ると、まるで夜空に月が現れたようだった。光輝くようで、とてもきれいで、ぼくは一目であの人に恋をした。だから、ぼくは君の愛には応えられなかった。
 とはいえ、ぼくはあの人を遠巻きに眺めているだけだった。話しかけるなんてとんでもない。近づくことすら躊躇われた。近づいて、ぼくの汚れがあの人も汚してしまったらどうしよう、そんなことを考えると、近づくことすらできなかった。でも、それで充分だった。月を愛でるのに、それに触れる必要はないだろう。それが夜空に浮かんでいるのを確かめれば、それだけで充分なはずだ。
 ところが、君の愛の告白がぼくに作用した。ビリヤードの球がぶつかるみたいに。ぼくは思いあがってしまったのだ。月に触れることが許されるのではないかと、あの人と言葉を交わすことが許されるのではないかと。
 あの人を町の中から見出すことは簡単なことだった。真っ黒けな中に、白を探せばいいのだ。ぼくはあの人を見つけ、黒く汚れた人たちをかき分けて近づいていった。あの人は、ちょうど鏡をこすり、そこに自分の姿を映しているところだった。
「あの」と、ぼくは声をかけた。すると、あの人は自分の唇に人差し指を当てた。
「しっ」
「え?」
「黙って」
 ぼくは黙った。
「聞こえなくなってしまう」鏡を見つめたままそう言った。
「何が?」ぼくが尋ねると、あの人は苛立たしそうに息を吐いた。
「声、わたしの声」
 結局、あの人が必要としていたのは自分自身の声であり、姿なのだ。ぼくが愕然としていると、あの人はどこかに行ってしまった。ぼくなんていなかったみたいに。その様子を、君が見ているのに気づいた。
「なに?」ぼくは君に言った。だいぶつっけんどんな物言いだったと思う。ぼくは失望し、憤慨し、それ以上に混乱していたからだ。自分をどうすればいいのか、自分でも持て余していた。君はおずおずと進み出た。
「あなたのこと、大好き」君は言った。
「ふん」と、ぼくは鼻を鳴らした。「ぼくは君が大嫌いだよ」
 すると、君はポロポロと涙を流した。
「泣いたからって」と、ぼくは言った。「同情してもらえると思ったら大間違いだよ」
 君は涙を流し続けた。それは君の顔を覆っていた煤を洗い流し、煤で汚れて真っ黒けだった君の顔が露わになった。それを見て、ぼくは驚いた。
「なんてこった」と、ぼくは君に歩み寄りながら言った。「君は、ぼくだったのか?」
 君は、いや、それはぼくであり、君である君は、コクリと頷いた。手を伸ばし、君に触れると、君は姿を消し、ぼくはぼくになった。


No.437


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