見出し画像

桜の木の下で

「この種を飲み込んで」と、彼女はその舌の上にさくらんぼの種を乗せたのを見せて言った。「わたし、桜の木になるから」
「さくらんぼの木と」と、わたしは言った。「たぶん、イメージしてる桜の木は種類が違うよ。それに」
「それに?」
「種を飲み込んだとしての、木にはなれないと思う。種のまま出てくるだけだと思うよ」
「出てくる?どうやって?」
 わたしは肩をすくめた。
「なんでもいいよ、別に。桜の木になれれば」
 わたしはもう一度肩をすくめた。彼女はわたしの真似をして肩をすくめた。
「ねえ」と、彼女は放り出すみたいに言った。
「なに?」
「あんたのそういう感じ、大っきらい」
 わたしは肩をすくめた。彼女はこらえていたが、しばらくすると我慢できなくなって吹き出した。
 くたびれた喫茶店、クリームソーダ、春の日差し、卒業式の練習なんてバカバカしいから、抜け出してきた。たぶん、自分のお葬式の練習もするのだろうな、あの人たち、と言おうかと思ったけど、そういう皮肉っぽいのがかっこいいと思うのは卒業することにしたからやめた。気に食わないものは積極的に無視することにした。それが大人の振る舞いなのかはわからないけれど。メロンソーダの緑色、溶けていくアイスクリーム、着色料で真っ赤なさくらんぼ。弾けていく泡だけが現実、ひとつ弾けるたびに、わたしは少し死に近くなる。子どもみたい。もうやめよう。
「引っ越しいつ?」と、彼女が尋ねた。
「再来週」わたしは答えた。
「ふーん」彼女は窓の外を見ていた。おばさんが運転する軽自動車が信号待ちをしている。
「問題」と、彼女が言った。「あの人は生きているでしょうか?」どの人のことか、わたしにはわからなかった。別にどうでも良かった。たぶん、彼女にしてもそうだろう。
「死んでる」わたしは答えた。
「ブー」と、彼女は言った。「不正解です。生きてます。一応」
「たぶん」
「たぶん」
 信号が変わって、車は走り出した。なんだかとても静かだった。時計が時を刻む。あのおばさんはどこに向かっていたのだろう。買い物?パート?病院?不倫相手のとこ?クソどうでもいい。クソどうでもいいことの集積がこの町であり、わたしのこれまでの人生だった。ここを出て行くことほど、わたしの望んでいたことはない。めでたし、めでたし。ホントに?
 彼女は真っ赤になった舌をベッと突き出し、その上に載せた種をわたしに見せると、それを飲み込んだ。わたしは肩をすくめた。
「いつだっけ?」
「再来週」
「そうじゃなくて」と、彼女は頬杖をついて言った。「卒業式」
「明後日」
「そっか」
 そして、卒業式当日。それはそれは感動的な卒業式でしたとさ。めでたし、めでたし。泣いてる子とかいたけど、なんか嘘っぽかった。卒業式が終わると、卒業アルバムと卒業証書が配られた。わたしと彼女はまっすぐにゴミの焼却炉のところに行って、それを燃やした。たぶん、それまでにしたどんな選択よりも正しい選択だったと思う。
 パチパチと小さく爆ぜながら燃えるそれを見つめていると、彼女が不意に地面に横たわった。
「なにしてるの?」わたしは尋ねた。
「ここで」と、彼女は言った。「桜の木になる」
「どうして桜の木になりたいの?」
 彼女はしばらく考えてから言った。「散るから」そして、また少し考えて「散って、散って、この世界を花びらで埋め尽くして、真っ白に染めてやるんだ」
「そう」と、わたしは言った。「いいね」
「ねえ」と、彼女は頬を地べたにピタリと付けて言った。
「なに?」
「あんたのそういう感じ、大っきらい」
「うん」
 彼女は目を閉じた。そして、そのまま動かなくなってしまった。まるで、死んでしまったみたいに。わたしは彼女をそのままにした。なにを言っても、やっても、嘘になりそうな気がした。
「嘘だよ」と、彼女は目を閉じたまま言った。「さよなら」
「帰ってくるよ」わたしは言った。
「さよなら」
「うん」と、わたしは言った。「さよなら」
 そして、わたしはその町を離れた。


NO.456

兼藤伊太郎のnoteで掲載しているショートショートを集めた電子書籍があります。

1話から100話まで

101話から200話まで

201話から300話まで

noteに掲載したものしか収録されていません。順番も完全に掲載順です。

よろしければ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?