見出し画像

本当に来るはずだったのとは別の朝

 朝、目覚めると、それが本当に来るはずだったのとは別の朝であることに気づいた。
 ぼくらは小さなオンボロ車の中で、身を寄せ合うように眠っていた。ふたりで毛布にくるまって。彼女の寝息を耳元で聞くのはとてもドキドキした。
 ぼくが目を覚ますのとほとんど同時に、彼女も目を覚ました。朝の空気が、オンボロの隙間から入ってきていた。とても新鮮で、まだ誰も踏み荒らしていない新雪みたいな空気だった。
「おはよう」と、ぼくは彼女に言った。
「おはよう」と、彼女はぼくに言った。
「気づいた?」と、ぼくは彼女に尋ねた。
「うん」と、彼女はうなずいた。
 それ以上なにかを言う必要はなかった。気づかなければならないのは、その朝が、本当に来るはずだったのとは別の朝だということに気づいたかどうかだけが重要だからだ。
 その朝は、間違いなく本当に来るはずだったのとは別の朝だった。
 ぼくは倒したシートから身を起こした。水平線が赤く染まっている。海沿いの駐車場に停めた車。
 夜中に来たときには、波の音が聞こえていて、潮の香りがすることでそこが海なのだと確かめられたけれど、やはり海そのものを見ると海に来たと実感する。
 ぼくはドアを開き、外に出る。雲ひとつ無い。海の向こうから、風が吹いてきている。強い風だ。波が打ち寄せ、打ち寄せ、打ち寄せる。テトラポットで砕けたそれは、白いしぶきを上げていた。
 彼女も車から降りてきた。彼女の長い髪の毛が風にもてあそばれている。彼女はそれを耳にかけようとするが、風はそれをすぐに払って彼女の思うようにさせない。
「これは」と、ぼくは言った。「別の朝だ」
 どこをどう間違ったのか。ぼくらにはまったく心当たりが無かった。間違えようが無いのだ。朝は朝として来るだけだ。まさか、別の朝が来るなんて、そんなことはありえない。レストランで頼んだものと違うものが出て来るのとはわけが違うのだ。しかしながら、そのありえないことが起きていた。どんなにありえないと言ったところで、それが現実のものとなってしまっては、受け入れるしかないのだ。
「こんなことがあるなんて」彼女がぼくの横に来て言った。「本当なら」
 本当なら、ぼくらは死ぬつもりだったのだ。理由は言わない。たぶん、バカにされるだろう。しかしながら、それはぼくらにとってはとても切実な理由なのだ。誰もぼくらの切実な理由を笑うことはできないはすだ。
 とはいえ、それは本当に来るはずだったのとは別の朝なのだ。
「これは」と、ぼくは彼女を見た。「別の朝だ」
「うん」と、彼女はぼくを見た。「別の朝だね」
 どちらからともなく、手を握った。
 別の朝に、わざわざ前の日の決意を持ち込むことはない。
 明日になれば、また別の朝が待っているのかもしれない。約束なんてない。でも、行こう。生まれ変わる朝が来た。



No.798

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?