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孤独な思い出

 幼い頃のぼくはかなりの人見知りだった。母は過保護な人で、しかもお喋りだったから、ぼくに関することはほぼ全て彼女任せにしている状態で、ぼく自身は一言も口を利かないでも物事が自動的に進んで行くという具合だった。そんなわけで、と原因はそれだけではないだろうけど、ぼくは人見知りで、他人とコミュニケーションをとるのがひどく苦手な子供だった。
 まだ低学年の頃、一度だけ転校をしたことがある。確か父の仕事の関係でだ。それまでもお世辞にも学校に馴染んでいたとは言えなかったぼくが、まったく知らない環境に放り込まれるだなんて。ご推察の通り、ぼくは持ち前の人見知りを発揮し、誰とも口を利かず、友達なんてできなかった。体育の時間などに、二人一組を作るように言われるときの恐怖といったらなかった。余りがでるような人数であれば間違いなくぼくがその余りになったし、余りがでない場合、ぼくの相棒になる人間はしぶしぶといった様子だった。
 できるかぎり、何も感じないように暮らしていた。ぼくに鋭敏な感性が備わっていたのなら、たちまち泣いてしまっていただろう。鈍感さは武器にもなるし防具にもなる。しかしながら、そうして身を小さくして生きていれば、さらに友達はできなくなるに違いない。
「なあ、おまえ、知ってるか?」と、ある日下校しようしていると声をかけられた。知らない子たった。それもそのはず、違うクラスの子だったからだ。その頃、違うクラスと言ったらまるで外国のように遠かった。
 ぼくは何も答えなかった。答えられなかったのだ。急に話しかけられて、当惑していたのだ。なんと答えたらいいのかわからない。もじもじするばかりである。
「知らないのか?なら連れてってやんよ」と言って、彼はぼくに有無を言わせずにグイグイ引っ張って行く。その町に越して来て間もないぼくには彼がどこへ連れて行こうとしているのかわからず、なすがままになった。
「こっからさ、入れるんだ」金網の破れたところを指し示し、彼は笑った。「こいよ」
 金網の先にあったのは古い、使われていない工場だった。何もかもが錆び、朽ちていて、至るところから雑草が勢いよくその葉を繁らせていた。
「こっちだ」彼はぼくを引っ張って行く。建ち並ぶ建物を抜け、中庭のようなところに出た。在りし日には、工員たちの憩いの一時に寄与していたであろうそこは、他の場所と同じように雑草が繁茂し、見る影もない。そこの中央には、木が植えてあった。その足元だけ、人の手の入った痕跡がある。トタン、ベニヤ板、ブルーシート、さまざまなものの複合体だ。
「秘密基地だ」彼は言った。「秘密だから、誰にも言うなよ」ぼくに言っても良かったのか聞こうかとも思ったが、有無を言わせずに中に引き入れられた。
 秘密基地内部は意外なくらい整理整頓が行き届いていて、競技用の自転車や、壊れたテレビ、マンガ雑誌が手製の本棚に並び、中にはエロ本もあった。
「全部おれが一人で作って、一人で集めたんだ」彼はニッコリ笑った。唇の隙間から歯が見えた。前歯が一本抜けていた。「おまえは仲間だから、おしえてやんだ」
 こうしてぼくは彼と仲良くなった。仲良くなってわかったのだが、彼はかなりの問題児で、先生たちは手を焼いていたし、乱暴者なものだから、周囲の子供たちからは完全に浮いていた。彼にもまた、友達と呼べる相手はいなかった。ぼくと同じように。
 ぼくは彼と常に行動を共にするようになった。学校でも、授業が終われば彼のところに行った。彼もぼくを待っていた。そして、二人してイタズラをして回るのだ。どんなイタズラだったかは差し控えよう。とんでもないイタズラだったとだけ言って置こう。
 ぼくと彼は友達というより、仲間、相棒に近い存在だったと思う。ぼくは彼を完全に信頼していた。ぼくのことを彼が裏切ることなどないと確信していた。実際、彼が口を割らなかったことで助かったことは一度や二度ではない。その逆もまたしかりである。
 しかし、そんな黄金の日々はあっけなく幕を下ろす。学年の終わりに彼は引っ越して行ってしまったのだ。ぼくに別れの挨拶もなしに。ああ、またぼくはひとりぼっちか、と思ったのだが、彼と過ごしたことで肝が据わったのか、さほど人見知りをしなくなっていた。友達ができ、いわゆる普通の生活を送り、そして成長した。
 彼がその後どうなったのか、ぼくは知らない。知りたいとも思わない。きっと彼はぼくのことなど覚えていないだろう。ぼくにしたところで、今日たまたま金網の破れたのを見て、彼を思い出しただけだ。彼の秘密基地のことを。あるいは、彼がぼくのことを覚えていたとして、再会し、当時のことを懐かしみながら語り合ったとして、結局のところ、あの日々はかえって来ないのだ。孤独な思い出は、孤独なまま大切にしまっておいた方がいい、そんな気がする。

No.297

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