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狼と鹿

 夢である事を自覚するような夢、そんな夢を見た。
 夢の中で、ぼくは狼だった。野生の狼だ。
 群れからはぐれ、独りぼっちでぼくは森を彷徨う。森はひどく黒く、深く、そして寒かった。吐く息は驚くくらいに白かった。
 耐え切れないような飢え、独りぼっちになってから、獲物を仕留められていない。ぼくはどうやら三流のハンターのようだ。あるいは、狼の狩りはチームワークでなされるものなのか。そうであったとしても、ぼくは優秀なそれではないだろうな、と考え、ひとり自嘲した。
 力ない足取りで森を踏み分けて行く。足下で小枝が嘲笑うように折れる。ぼくは心細くなる。それでも歩みを止めない。止めたくないし止められない。森は次から次へと頭の上に覆い被さって来て、ぼくを飲み込もうとする。歩みを止めるわけにはいかない。飲み込まれまいと、ぼくは前へ前へと進む。自分がどこへ向かっているのかはわからない。どこにも向かっていない。目的地を持たないものに、どこかを目指すことなどできようか。ただ、森の飲み込もうとするのから、必死で逃げているだけだ。
 不意に、開けた所に出た。頭上を覆っていた森の木々がそこだけポッカリと穴が空いたようになっている。日差しが差し込み、スポットライトのようにそこだけ照らし出している。
 突然の事に立ち尽くしていると、微かに息をする音がする。呼吸の、喉を空気が通って行く音。沈黙に慣れた耳がそれを捉えた。息を潜め、耳をそばだてる。間違い無い、確かに息をする音が聞こえる。
 ぼくは身構える。臆病者のぼくにとって、他者とはつまりぼくに害をなすものだ。低く唸り声を上げて虚空を威嚇する。物陰という物陰を睨み付ける。どこかに、物陰に潜んでぼくを狙っている奴がいる。
 ぽくは怯えていた。それは憐れを催すほどだったことだろう。ぼく自身、嫌と言うくらいそれを自覚していた。そして、それを振り払おうとしていた。唸り声は、威嚇であり、同時に自分に対する鼓舞でもあった。
 微かな息の音に耳を澄まし、その音の出所を探る。身体の力は決して抜かず、足音を忍ばせてそこに近付く。張り裂けそうな鼓動、意を決して物陰を覗き込む。
 瞳、澄んだ瞳。混じり気無しの視線がぼくの網膜を刺した。それは電撃だった。それくらい鮮烈で、強烈だった。ぼくは稲妻に撃たれたようになった。
 そこにいたのは、老いた牡鹿だった。毛並みは悪く、ところどころ抜け落ちている。痩せて、肋骨が浮かび上がっている。それは、ゆっくりと胸を動かし、ひとつひとつ確かめるように呼吸をしている。
 彼はぼくを見ても逃げ出さなかった。狼であるぼくを見てもだ。いや、逃げ出せなかったのだ。見ると脚が不自然に折れ曲がっている。脚を折っているのだ。
 何と言う幸運だろう。ぼくは思った。警戒に身体に込めていた力は一気に抜けた。自分の幸運に笑い出したい気分だった。飢えた僕を、神様も憐れんでくれたのに違いない。狩る事なく、ぼくは空腹を満たす事が出来る。それは実に容易いことだ。ただ噛みつき、引き倒せばいい。口の奥から唾液が溢れて来る。
 早速食事に取り掛かろうと駆け寄った瞬間、その老いた牡鹿とまた眼が合った。
「私を食べるのか?」と老いた牡鹿は言った。
「ああ」とだけ答える。
「そうしないと、君も生きていけないものな」と牡鹿は仕方無さそうに言った。
「これは夢だから」とぼくは言った。
「君にとっては夢でも、私にとっては違うかもしれない」と牡鹿は言った。「それはなんの慰めにもならないし、そもそも慰めなんていらないよ。そういうものだ」
「あなたは卑怯だ」とぼくは言った。
「すまない」と牡鹿は苦笑いする。「確かに、食べる者と、食べられる者が、あまり長話をするのは良くないな」
 ぼくは黙っていた。
「でも」と牡鹿は言った。「最後に君と話が出来て良かった」
 ぼくはなにも答えなかった。
 血の臭い、湯気を立てる臓物、粘り気。
 眼を覚ました後も、牡鹿の澄んだ瞳が焼き付いて離れなかった。


No.376

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