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世界中が暗闇に包まれたみたいだった

 すべての明かりが消されて真っ暗になると、まるで世界中が暗闇に包まれたみたいだった。
「おやすみ、わたしの天使たち」と、お母さん先生はわたしたちの部屋の明かりを消しながらわたしたちに言う。
「おやすみなさい、お母さん先生」と、わたしたちは声を合わせて言う。
 お母さん先生は先生であってお母さんではない。わたしのお母さんは病気で死んでしまって、それでわたしはその孤児院にいたのだ。
 わたしたちの部屋は、わたしが大人になって、孤児院を出たあとに観た戦争映画の、兵隊たちが寝起きするところに似ていた。大きな部屋に、ベッドが並べられている。自分だけのスペースはベッドの頭のところだけ。そこに歯ブラシと、マグカップ。そこにいる時のわたしの全財産はそれだけ。それの良いところは、火事になっても慌てなくていいところだ。わたしは自分の全財産をすぐに掴んで、逃げ出すことができる。なにも迷うことはない。
 間違いなく言えることは、お母さん先生たちは善良であったということだ。それは間違いない。
 すべての明かりが消されて真っ暗になると、まるで世界中が暗闇に包まれたみたいだった、と、わたしは思った。
 嘘だ。
「まるで世界中が暗闇に包まれちゃったみたい」と、彼女が言ったのだ。すべての明かりの消された部屋、わたしのすぐ隣のベッドの彼女。
「そう思わない?」と、彼女はわたしに尋ねた。消灯後の私語は厳禁だ。もし見つかれば、罰が待っている。わたしは黙っていた。
「ねえ」と、彼女は声を潜めながら言った。「起きているんでしょう?」
 彼女はみんなの嫌われ者だった。彼女が嘘ばかりつくから、みんな彼女のことをのけ者にしていた。
「わたし、大きな会社の社長の娘だったの」と、彼女はすました顔で言ったものだ。「でも、パパもママも事故で死んじゃって、それでここにいるの」
「他の親戚は?」
 彼女は首を横に振る。「パパは故郷を捨てて海を渡ってひとりでここに来て、自分の力で会社を作ったの。親戚はいない」
 誰も彼女の言うことなんて信じなかった。孤児院にいる子どもたちはそれぞれに不幸な事情がある。それぞれの不幸なそれまでに照らし合わせて、彼女の語る内容は嘘だと思われた。そして、彼女はのけ者にされた。と言っても、孤児院では互いに深く踏み込もうとはしなかった。誰もがいずれどこかの家庭にもらわれていくつもりだし、そこでの日々はできることなら忘れてしまいたいものになる予定だからだ。そこで思い出を作ろうとするなんて正気の沙汰ではない。
 わたしだけは、彼女の話を聞いてあげていた。なんだか彼女が可哀そうだったからだ。本当は、孤児院の誰もがちょっと嘘をつく。それぞれの不幸を認めないために、ちょっと嘘をつく。不幸をそのまま認めるのはなかなか難しい。
「起きてるんでしょ?」と、真っ暗な部屋で彼女はわたしに向かって言う。
「うん」と、わたしは答える。「眠れないの?」
「ううん」と、彼女は答える。「眠りたくないの」
「なぜ?」
「眠って、そのまま死んでしまいそうな気がするから」
「大丈夫だよ」
「本当に?」
「たぶん」
 嘘だ。わたしは何も答えなかった。眠ったふりをして、彼女を無視した。
 彼女はたくさんの嘘をついた。いつだって嘘をついていた。「わたしたち、きっと幸せになれると思う」と、彼女は言った。
「そうかもね」と、わたしは気のない返事をした。その嘘が信じられるほどわたしは楽天的ではなかった。「そうかもしれない」
「大丈夫」と彼女は言った。「いつか必ず、幸せを感じられる」
 わたしは彼女のたったひとりの友達だった。彼女は嘘ばかりついて、のけ者にされていたから。
 嘘だ。本当はドジでのろまなわたしがのけ者にされていた。彼女はそんなわたしに話しかける唯一の人間だった。彼女は嘘ばかりついたけれど、わたしは彼女の嘘が好きだった。
「きっと幸せになれる」
 世界が暗闇に包まれたその夜から少しして、彼女は風邪をこじらせてあっさり死んでしまった。わたしは彼女の代わりに嘘をつくようになった。
 これは本当だ。悲しいけど事実。彼女は本当に死んだ。あっさりと。
 あるいは、彼女がどんな人間だったのか、本当に社長の娘だったのか、調べることはできるかもしれないけれど、それで真実を見つけたところで、なんになるだろう。真実なんてクソくらえ。
 誰にも、彼女が幸せではなかったなんて言わせない。



No.411


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