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EVERGREEN

 まだぼくらが幼い頃、兄は草むらへ行くことを日課のようにしていた。学校から帰って来ると、ぼくらのために設えられた子ども部屋に荷物を放り込んで、一目散に草むらへと駆けて行った。晴れた日はもちろん、曇りの日にも、雨の日や雪の日でさえ。まるで、そここそが本当の住み処であるかのように。
 兄はその草むらを知り尽くしていた。どこに窪みがあるのか、倒木の来歴、ちょっとした木立の一本一本、そのうろの形状まで。それくらい、兄は四六時中草むらにいた。
 兄がそれほど長い時間草むらで過ごす理由はわからなかった。ぼくがついて行こうとすると嫌がるのだ。それはかなり強烈な拒絶だった。怒りにも似た勢いで拒む。兄には珍しいことだった。兄は穏和で、変に老成した子どもで、その時分から声を張り上げたりなど決してしなかったのだ。それが、こと草むらのこととなると人が変わったようになった。まるでそこが神聖不可侵な聖域で、兄を除くすべての人間の立ち入りが禁じられているかのように。
 ある日、兄の机の引き出しを覗いた時に、その理由がわかった気がした。兄が留守の時、といっても兄は草むらに行っているのだから大抵留守なのだが、なんとなく兄の机の引き出しを開けてみた。学校で配られたプリントが几帳面にしまわれている。その奥に、それはあった。最初、何かゴミがあるのだと思った。引き出しの奥まで光は差し込まず、その影しかわからない。それにしても、それはいくつもあるし、整然と並んでいるように思えた。引き出しを開ききって、それが何かわかった時、一瞬息を飲んだ。ゴミだと思ったそれは昆虫の死骸だった。兄は草むらで虫たちの死骸を集めていたのだ。様々な昆虫が、身を寄せ合うように並んでいた。どの昆虫も、何かを抱くように足を折り曲げていた。よく見ると、中には干からびたトカゲの死骸も幾つかあった。幾つかの死骸は部分的に朽ちていた。今なら、禁教の地下墓地のようだ、とでも喩えられるだろう。それはなにか厳かなものを感じさせなくもなかった。並んだ死骸は無造作にではなく、丁寧に並べられていた。兄の、その死骸ひとつひとつに対する敬意が垣間見えるようだった。しかし、その頃のぼくの語彙にそんな単語はなく、ただ何か恐ろしい物を見たような気になっただけだった。あるいは、それは荘厳で美しくもあった。死骸は怖かったが、その後ぼくは何度となくそれをもう一度見たいという欲求と闘うことになった。ぼくは引き出しを閉め、その場を離れ、兄にそれを見たことを悟られないように生活した。兄がそれを見られたことに気付いたかどうかはわからない。少なくとも、兄に変わった様子はなかった。ぼくはそのことについて兄に尋ねたかったが、それは憚られた。口にすると、すべてが崩れ去ってしまいそうだった。
 虫たちの死骸がその後どうなったかはわからない。成長した兄はそれを捨てただろうか?答えを知る術はもうない。 ぼくと兄は歳を重ねるにつれ疎遠になり、ついには一切口もきかないようになり、お互いがどこで何をしているのかも知らない有様になっていたからだ。兄からの、というか、兄についての久しぶりの連絡は、兄が死んだということを伝えるものだった。
 兄の葬儀の日は朝から雨だった。黒い服の一団は、おそらくより黒く見えただろう。
「あなたのお兄さんはね」と義姉、つまり兄の妻は言った。「最低の人間だったわ」
 それに曖昧にうなずいて返す。死に魅入られた兄は、生きるのが下手だった。その後も義姉は何かを言ったが、ぼくにはなにも聞こえなかった。
 傘を叩く雨粒の音以外、何も聞こえなかった。


No.191

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