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そして、彼は

 出番の時間が近くなってきても、彼が姿を見せないので、業を煮やして控え室に行ってみると、彼はまだ着替えすら済ましておらず、ズボンだけ身に付け、上半身は裸だった。控え室の真ん中に、廊下で立たされている子供みたいに立っている。どこか所在なさげで、困っているような感じだ。貧相な胸板、ひょろっと長い腕、不恰好なほど細長い指、血の気の引いたように白い肌。
「あの指先から」と、わたしは思った。「神の音楽が紡ぎ出されるのだ」
 控えめに言って、彼は天才だった。その演奏の天賦の才は、おそらく、歴史上の人物を含めても、彼のそれを上回る人間はほとんどいないだろう。同時代を生きられることを感謝すらしてしまうほどの天才、それが彼だった。
「何をしているの?」と、わたしはなるべく平静を装いながら言った。少しでも気を緩めると怒鳴り散らしてしまいそうだった。「みんながあなたを待っているのよ」
「ぼくの」と、彼は右手で左の肩を擦りながら言った。「ぼくの無様に失敗するのを、だろう?」
「違う」わたしは彼に歩み寄った。彼が身を強ばらせるのがわかった。「あなたが生み出す天上の音楽を待っているの」
「夢を見たんだ」と言う彼の胸にはうっすらと汗が玉になって浮かんでいた。「音符がうごめき出して、譜面から逃げて行ってしまうんだ。ぼくは慌ててそれを捕まえようとするのだけれど、捕まえることができなかった。指がうごかない。まるで石になってしまったみたいだと思って、自分の手に目をやると、それは象の足になっていた。観客席は静まり返っていた。こんなことになっているのに、誰ひとり動揺しないなんておかしいだろ?あれは、みんなぼくがそんな風になるのを知っていたからなんだ。ぼくがそうなることを望んでいたから、ぼくがそうなることを知っていたんだ」
 わたしは彼に気付かれないようにため息をつこうとした。彼はそれに気付いていた。彼はわたしの顔をじっと見た。
「わたしは夢判断の専門家じゃないから、それが何を意味しているのかはわからない」
「だから?」彼の口調には挑むようなところがあった。
「とにかく、服を着て!そして舞台に出て演奏をしなさい!」その語気に、わたしは自分でも驚いた。そのあとの沈黙が、嫌でも強調された。わたしと彼の間には、深い沈黙が口を開いていた。
 彼はわたしを見詰めた。わたしはそれに負けじと彼を見詰めた。
「ねえ、聞いて」と、わたしは囁くように、こびるように言った。「わたしはあなたの味方なのよ。あなたのためを思って言ってるの」
「あの」と、ホールのスタッフがやって来て、おずおずと言った。「何かトラブルですか?もう出演の時間ですが」
「黙ってて!」わたしは怒鳴った。「すぐ行くから、少しだけ間を繋いでいて」
「ぼくは行かない」と、彼は間を置かずに言った。
「あなたも黙って!」部屋の空気が凍りついた。わたしの耳には、その時のわたしの声のこだまがまだ残っている。それは響き続け、消えることはないのだろう。「シャツを着て!蝶ネクタイをして!ステージに出て演奏しなさい!これはお願いじゃない。交渉でもない。これは命令よ」
 その夜の彼の演奏は、本当に天上の音楽だった。いままででも一番の出来だった。あるいは、奇跡と呼んでもいいくらいのものだった。彼が最後の一音を奏でるのがこれほどいとわしいと思ったことはなかった。その時間が永遠に続けばいいと、わたしは思った。わたしだけではないだろう。そこに居合わせたすべての人間が思ったに違いない。聴衆のスタンディングオベーションはいつまでも鳴りやまず、それは本当に永遠に続くのではないかとすら思えるほどだった。
 しかし、それは二度と聴くことはできない。その天井の音楽を聴くことは、もうない。
 彼が、いなくなってしまったのだ。
 もちろん、ほうぼう手を尽くして探した。警察だって動いていた。テレビや新聞などのマスメディアも血眼になって彼を探した。わたしは探偵だって雇ったのだ。それでも、彼は見つからなかった。誰も彼を見つけることができなかった。それは端的に言って彼の決意の固さを物語っていた。彼はもう二度と表舞台には立ちたくないのだろう。
 わたしは悲しかった。思い出の中の彼の姿、難しいフレーズをいともたやすく弾いて見せ、得意げにこちらを見ている笑顔。わたしが悲しく思うのは、彼の奏でる天上の音楽を失ったことよりも、彼の子どもみたいに無邪気な笑顔が見られなくなったことだった。


No.445



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