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ぼくらはどこにも行けない

 昔、猫も杓子もタクシーに乗るものだから、タクシーがなかなか捕まらないという時代があった。もちろん、電車やバスという公共交通機関が存在しなかったわけではない。それはちゃんと存在したし、いまと変わらずに動いていた。電車やバスの交通網の整っているのになぜタクシーかと言うと、そういった公共の移動手段が終わってしまうまで飲んでいるだけ、世の中の多くの人の羽振りが良かったからで、そこでタクシーで帰ろうと考えられるだけまた世の中の多くの人の羽振りが良かったからだ。とにかく誰も彼も羽振りが良かった。下水道のドブネズミさえ肥太っているのではないかというくらい。その恩恵に浴することができた人はみんな。まるで別世界での出来事のようだ。今は昔。むかしむかし、あるところに、で始まる昔話。
 当時、ぼくはまだ学生で、学生なのに自分の車を持っていた。もちろん、自分で買ったわけではなくて、親に買い与えられたものだ。ぼくの親も時代の恩恵に浴する羽振りの良い人たちだった。あの頃は、全ての物が、いや、事も、全ての物事がそんな具合に与えられていたのかもしれない。結局のところ、どれもこれも自分で手に入れたものではなかった。しかし、誰も彼も浮かれていたから、正常な判断が出来ていなかったのではないかと思うのだが、そんなことには気付いていなかった。誰一人として、自分の手でなにかを掴み取ってなどいなかった。そのツケはのちのち払うことになるわけだけれど、まあ、そんなものだ。いつの時代でも。
 その夜、どうしてそんな遅い時間に車を走らせていたのかは記憶に無い。まあ、気楽な学生の身分だ。気分転換かなにかで夜のドライブに出たのかもしれない。車を運転するのは好きだった。
 とにかく、ぼくは車を走らせていた。都会では、タクシーがやたらたくさん走っていた。羽振りの良い人々を乗せた羽振りの良いタクシーだ。羽振りの良いタクシーは態度も大きく、急にぼくの前に割り込んで来たり、逆にぼくが車線を変えようとしても中々入れてくれなかったりで苛々させられた。それに、数が多いものだからすぐに渋滞になる。果たして文明は便利な方向を目指しているのか首を傾げたくなった。高速で移動できる乗り物を作りながら、それをノロノロとしか動かせないなんて。まあいい、そういうものだ。いつの時代でも。
 彼女はタクシーを捕まえようとしていたのだろうと思う。道に出て、手を挙げていた。しかし、タクシーは客を乗せていて止まらない。ぼくがタクシーの運転手だったとしても、彼女みたいに遠目でも小娘とわかる人間の前で止まらなかったと思う。大きな魚はウヨウヨいるのだ。わざわざそんな小魚に時間を割く無駄は誰だってしないだろう。
 ところがぼくは暇人である。ぼくは彼女の前に車を止めた。「どうぞ」とぼくは助手席のドアを開けながら言った。
「は?」と彼女は言った。思ったよりも若い、少女と言ってもいいくらいの女だった。「なに?あんた」
「乗せていってあげるよ」
 彼女はため息をついた。「今、最悪の気分なの。あっち行ってくんない?」
「タクシーが止まらないで困ってただろ?」
「ヒッチハイクはしてない」と彼女は言った。メイクが少し崩れていた。特に目のあたり、マスカラが頬に筋になっていた。涙が流れたのかもしれない。
「乗りなよ」
「いや」
「善意からだから」
「下心でしょ?」
 ぼくは肩をすくめた。否定をすると嘘になりそうだった。彼女はジッとぼくの目を見つめた。そこにぼくの本音が書かれているかのように。そして、やにわに助手席に乗り込むと力いっぱいドアを閉めた。
「壊れちまう」ぼくは言った。
「こんなオンボロ壊れたって知るもんか」彼女はそう言って「行って!」と叫んだ。
「行って、って」ぼくは少し狼狽していた。「どこに?」
「どこでもいいから、とにかく遠くまで。うんと遠く。遠く遠く、わたしがわたしでなくても良くなるくらい遠くまで」
 こういう展開にはならなかった。
「さっさと行ってよ」彼女は不機嫌そうに言って、助手席のドアを力いっぱい閉めた。彼女がそこに座らないまま。
 ぼくはすごすごとそこをあとにした。ぼくはヘッドライトとテールランプが作り出す光の川に流れ込み、サイドミラーに映った彼女の小さな姿は街を彩る色とりどりの中に消えた。
 彼女がその後どうなったのかをぼくは知らない。彼女と会ったのはそれっきりで二度と会わなかったからだ。会おうと思っても不可能だっただろう。街には大勢の人がいるし、お互い顔を覚えてもいなかったに違いない。あるいは、どこかですれ違うことがあったかもしれないが、そうだったとしてもぼくは彼女を認識できなかった。彼女だっておそらくそうだろう。たとえ認識できたとしても、やり過ごしただろうとも思う。ぼくらは他人で、どこまで行ってもあかの他人だったからだ。ぼくがその後どうなったかは語ったところで大して面白い話にはならない。きっと、とても退屈な話になる。それを生きているぼくにとってすら退屈なんだから。
 つまるところ、ぼくらはどこにも行けないのだろう。


No.309

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