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病気のない国

 わたしは狂人である。職業は、もう無い。無職だ。わたしの狂気が認定されると同時に、わたしはそれを奪われたのだ。奪われる前のわたしの職業は医者であった。別に名医でもなんでもない。どこにでもいるような医者だ。結果として、わたしがその職業に就いていたからこそ、わたしは狂人と見なされるに至った。わたしの下した診断がその引き金であった。誤診?まさか。それは難しい症例でもなんでもない、ただの風邪だ。わたしの下した診断とは風邪の診断だ。
「ちょっと扁桃腺が腫れてますね。お薬出しときますから、安静にしておいてください」
 わたしは狂人である。それを認めるのにやぶさかではない。狂人ゆえに、狂人だからこそ、本当の狂気を糾弾できるのだ。誰も狂人の戯言に耳を傾けないだろう。ならば大手を振りながら言おうではないか。この国は狂っている。もう一度言おう、それも大声で。この国は狂っている!
 わたしの暮らす、そして医者として医療に携わっていたこの国は、優れた医療技術を持っていることになっている。なぜなら、病人や怪我人といったものが存在しないからだ。我が国はそれを誇っている。だが、これは論理がどうもおかしい。本来なら、「優れた医療技術を持っているから、病人や怪我人がいない」であるべきだ。ところがこれが転倒し、「病人や怪我人がいないから、優れた医療技術を持っている」と考えられているところに不幸の全てがあり、わたしの狂気がある。
 実際のところ、この国の医療はかなり先進的ではある。しかしながら、治せないものは治せないのが医療だ。人間の身体という自然に対し、科学は依然脆く儚いものなのだ。それをこの国は認めなかった。なぜそんな選択をすることになったのかはわからない。だが、できないことがあるということを認めたくない、という気持ちはわからないではない。気持ちはわかるが、それは間違ったことだ。特に人を傷付けるとあれば。
 優れた医療技術を持つこの国では、病気はあってはならない。それは事前に診断され、予防されるべきだと考えられている。病気は忌むべきものだ。誰もそれを認めたくない。だから、それを認めない。そんなものは存在しないのだ。たとえ咳をし、鼻水をたらしていたとしても、たとえ心臓に痛みを抱えていたとしても、たとえ激しい頭痛でのたうち回っていたとしても、病気は存在しない。病気は診断された瞬間に現れるのだ。診断されなければ、病気は存在しない。優れた医療技術を持つこの国では、病気が存在しない。誰も病気であると診断しないからだ。
 そんな国で風邪の診断を下したわたしは狂人であると診断された。存在しないものを存在すると言えばそれは狂人だ。自分のことを付け狙う秘密組織が存在すると騒ぐ人間は狂人だ。それと同じように、存在するはずのない風邪が存在すると言うわたしは狂人なのだ。
「あなたは狂っています」とわたしを診察した精神科医は診断した。
「わたしは病気ですか?」とわたしは尋ねた。
「いえ」と精神科医は首を振った。「あなたは狂っているだけです」

No.265

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