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それはどこまでもどこまでもつづくでしょう

「いくつまで数えたことがありますか?」と、ぼくに尋ねたのは仕事の関係で知り合った女性だった。すらっと背が高くて、鼻筋の通った理知的な人だ。いつも颯爽とあらわれ、颯爽と去って行く、そんな印象の人。見るからに仕事が出来そうで、実際非常に優秀な人だった。
  それは、何度目かの打ち合わせとき、普段なら一切無駄のない、それこそ芸術作品のように完璧な打ち合わせをする彼女だったのだけれど、その瞬間、ぽっかりと穴が開いたような感じで空白ができたのだ。野球でたとえるなら、野手と野手のあいだにボールがポトリと落ちるように。その空白に、彼女が不意に打ち込んできたのだった。
「数えたって?」 と、ぼくは尋ね返す。質問に質問で返すのはいささか礼を失するかもしれないけれど、質問の内容が判然としない。「なにを数えるんです?」
「数ですよ。一、二、三、四って」 彼女は言った。「なにかをじゃなくて、数です。数自体」
「さあ、百くらいまでならあると思いますけど」ぼくは記憶を総ざらいして考えてみた。 まだ幼い頃、父親と一緒に入っていた風呂場で百まで数えたことがあるように思う。もしかしたら、なにかを数えるときにはもっと多くの数まで数えたことがあるかもしれないけれど、あいにくそれは思い出せなかった。
 そう言う彼女はいくつまで数えたことがあるのかと尋ねると、とんでもなく大きな数が返ってきた。とんでもなく大きな数だ。それも一の位までよどみなく完璧に、なにかそこに楔でも打ち込んで印をつけたみたいに完璧に、彼女はその数を口にした。それよりも一多くも、一少なくもない、一切のごまかしのない数字であることが彼女の口調からわかった。彼女は間違いなくひとつずつ数を数え、その数まで到達し、そしてその先に進むことはなかったのだ。もちろん一時にではないという。とにかく目が覚めているときには数え続け、食事のときも、授業中も、風呂で体を洗うときにも数え続け、そして寝る時刻になると枕元にその日数えた数をメモし、翌朝またそこから続けて数えたのだと言う。それを毎日毎日続けたらしい。
「一体なんでそんなことを?」と、ぼくは苦笑交じりに尋ねた。少なくともぼくの理解の及ぶことではなかった。
「小さな頃の話ですよ」と彼女は笑った。「まだ子どもの頃、学校に通っていた頃のことです。ちゃんと数が欠けることなく続いているのか不安だったんです。学校で、数は無限にあるって、たぶん算数の授業のちょっとしたお話で先生が話してくれたんだと思うんです」
「それで、数え始めた」
「ええ」と彼女は頷いた。「もしどこかで欠けていたら、何か大事なものが損なわれてしまうような気がして」
「大丈夫だった?」 ぼくは尋ねた。
「数えたところまでは」と彼女は微笑んだ。
「今はもう数えないんですか?」
「そうですね」彼女は目を伏せた。「なぜでしょう。もう数えなくなりました」
 それからも何度か仕事の打ち合わせなどで彼女と会ったが、その話をすることはなかった。しばらくすると、風の噂で彼女が仕事を辞めたのを聞いた。理由は曖昧なもので、誰一人釈然とはしなかっただろう。彼女がいま何をしているのかは知らない。もしかしたら、また数を数え始めたのかもしれない。この世界のどこにも傷がないことを確かめるみたいに。



No.206


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