見出し画像

愛という言葉を初めて使ったのはいつ?

「愛という言葉を初めて使ったのはいつ?」という質問をされて戸惑ったのは、その響きがなんともむず痒いものだと思っていたからに違いない。ぼくはそんな甘ったるい言葉をやすやすと口にできるようなタイプの人間ではないのだ。それが良いのことか悪いことかはわからないけれど。
 適当な返事をしてやり過ごすこともできたはずなのに、というか、普段のぼくならそうしていただろうに、この時だけは、そうできなかった。ただ口ごもり、思春期の小僧のように頬を赤らめてしまった。
 違う。全てはこの状況のせいだ。別に「愛」という言葉に動揺したわけではない。この状況でなければ、別段戸惑ったりもせずに、いつものように答えられたのだ。口先八丁で、満点、花丸のつくような答えを。状況。後ろ手に縛られ、人質となっている。なかなかできない経験だ。それにしても、彼女の手際の良さと言ったらなかった。
 もうすぐシャッターを閉める時刻だった。客もまばらになっていたし、頭の中はこのあとどう過ごすかで一杯だった。週末だし、ガールフレンドの誰かを誘って食事にでも行くか、まあ、急に誘っても誰かしらは来てくれるだろう。いや、ひとりで自宅に帰り、のんびりと映画でも観てくつろぐか。それも悪くない。云々。
「手をあげなさい!」それはまるで女教師が命令を下すような口調だった。入って来るなり彼女はそう叫んだ。一も二もなく従いたくなるような調子だ。そういうわけで、手を上げ、言われるがまま人質になった。ぼくの同僚たちや、わずかながらまだ残っていた客たちにとってもその声は同じように響いたらしく、彼らも大人しく従っていた。
「よろしい」彼女は満足そうに我々を見回した。その視線と同時に、銃口もぐるりと辺りを見回す。生まれて初めて本物の銃を見たが、黒光りする銃身は美しく、官能的ですらあり、惚れ惚れした。
 彼女は手際良く我々を後ろ手に縛っていった。誰一人抵抗しようとはしなかった。そうされるのが当然と言った感じだ。ぼく個人の感想としては、それは赤子がおしめを替えてもらっているような、そんな具合だった。
 そうしている間に、周囲は警察に囲まれていた。彼女はそれを待っていたかのようだった。ニヤリと不適な笑みを浮かべ、銃身を撫でる。彼女は部屋の明かりという明かりを全て消し、シャッターが閉められるところはシャッターを、そうでなければカーテンを下ろした。外では警察が投光器を設営し、こちらを照らしている。
 こういう時には「故郷のお母さんが泣いてるぞ」的な説得でもあるのかと思ったが、そんなものはなかった。彼女の要求を問い質し、飲めるものは飲み、そうできないものは少しずつ妥協点を探る、そういう姿勢のようだ。まあ、当然か。
 ところが、どうやら彼女には何の要求も無いようだ。幾つか要求らしきものを口にしたが、それは直前にしたものを打ち消すような、どれもこれも矛盾をはらんだものだった。彼女には、要求は無いのだ。こんな大それたことをしでかして、それでいて要求が無い?そんな馬鹿な。しかし、それが現実であるらしい。
 彼女はぼくを盾にして、窓辺に立ち、外の警察を眺めた。その際、彼女の胸がぼくの背中に当たり、ぼくはそんな時にも関わらず興奮してしまった。我ながら危機感の無い男だ。彼女の気紛れで、ぼくは簡単に殺されてもおかしくない立場にいるというのに。
 そして、彼女はその時ぼくの耳元で囁いた。「愛という言葉を初めて使ったのはいつ?」
 ぼくは口ごもった。
「いつ?」
「わからない」
 彼女は驚いた。「まさか、使ったことが無いの?」
 そう言われてみると、そうなのかもしれない。音として、それを発音したことは幾度かはあったかもしれないが、その言葉を使うという意味で使ったことは無いようだ。
「使ったことが、無い」
「本当に?」
「ああ」
 彼女は軽く息をついて、手にしていた銃を捨てた。ぼくは呆気にとられてそんな彼女を様子を見ていた。警察が突入して来るのが、スローモーションのように見えた。簡単に逃げ出せそうにも思えたが、彼女はそうはしなかった。
「愛してる」ぼくは彼女に叫んだ。「愛してる」
 彼女は波に呑まれる小舟のように捕らえられた。あれやこれやのあと、ぼくは帰って簡単な食事を作り、缶ビールをのみながらそれを食べた。テレビでやっていたアクション映画はひどく退屈だったので、少し早目だったが、床に就くことにした。

No.232

兼藤伊太郎のnoteで掲載しているショートショートを集めた電子書籍があります。
1話から100話まで

101話から200話まで

noteに掲載したものしか収録されていません。順番も完全に掲載順です。
よろしければ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?