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ある女優の死

 何気無くつけていたテレビがその女優の死んだことを報じた時、ぼくは衝撃を受けた。足元の大地が崩れ、ゆっくりと、渦に呑まれるような感覚だった。緩慢な落下。もしかしたら、少し取り乱しまでしたかもしれない。辺りを右往左往歩き回ったような記憶がうっすらとだがある。
 普段のぼくであれば、そんな反応は示さなかっただろう。くだらない芸能ニュースか、くらいで軽く聞き流していたに違いない。もちろん、人の死がくだらないなどということはないが、芸能ニュースに関して、ぼくはその必要性が理解できないのだ。誰と誰が結婚したとか離婚したとか。それはまるでそれ自体がエンターテイメントのようで、その延長線上に俳優や歌手の死までが扱われているように、ぼくには思えた。エンターテイメントとしての死。有名税なのだとしたらあまりにも重すぎる。そうした芸能ニュース全般を、ぼくは嫌悪していた。
 しかし、この時のぼくはそんな感情にならなかった。それはエンターテイメントではなく、厳然たる死だった。この時が特殊だったのは、その女優は、ぼくの幼馴染みだったからだ。と言っても、彼女とぼくが関わったのはぼくも彼女もまだほんの幼い時分だけのことだった。まだ学校に上がるか上がらないかといったくらいの年頃のことだ。家が近所で、母親同士の仲が良かった。そんな理由だ。学校に上がってからも、しばらくは付き合いがあったかもしれない。しかし、次第に疎遠になり、遂には全く顔を合わせないくらいにまでなった。ぼくが故郷を離れ、少しすると彼女が女優になったという風の噂を聞いた。その時は気にも留めていなかったが、ある日、映画のポスターを見て驚いた。大人になって少し顔立ちが変わってはいたが、幼い頃の面影があった。ぼくは茫然とそのポスターの前に立ち尽くした。あるいは、通りがかった人にはぼくが彼女に見とれているように映ったかもしれない。
 それからはトントン拍子だった。彼女はスキップでもするみたいに軽やかに階段を昇って行き、そして、スターダムを登り詰めた。完全なスターだ。華やかな生活、ゴシップ、レッドカーペットで降り注ぐ歓声。
 何本か彼女が出演した映画を観たが、はっきり言って凡庸な演技しかしていなかった。それを言うのならば、彼女はちょっとスタイルが良いだけで、顔立ちだって凡庸極まりなかった。何が彼女をその位置まで押し上げたのか、ぼくには理解できなかった。
 面影があったといったが、実際のところ彼女の顔から、幼い頃の彼女に遡って想像するのは難しかったのではないかと思う。幼い彼女は、平凡も平凡、どこにでもいる、そばかすだらけの女の子だった。ゴシップが美容整形を言っていたが、あながち嘘ではなかったのかもしれない。おそらく、道ですれ違っても、ぼくは彼女に気付かなかっただろう。ぼくにとっての彼女は、すでにスクリーンの中の彼女で、ぼくが言葉を交わし、触れた彼女とはまったくの別物になってしまっていたのだ。まあ、彼女はさらにぼくに気付かなかっただろうが。
 彼女の死は、しかしながらぼくを強く打った。彼女の死は、ぼくが会っていた彼女の死だった。皮肉なことかもしれないが、彼女のその死によって、ぼくの中の彼女が甦ってきた。
「あたしはね」と幼い彼女は舌っ足らずに言った。「女優になるのよ。そんで、たくさんの人に綺麗って言われるの」
 どこかの公園のベンチで、彼女はこう言った。その言葉は、目標を掲げた、というよりも、予言に近い力強さを持っていた。
「あんたは」と彼女はぼくの顔をじっと見詰め、その先の未来まで見透すみたいな目付きで、そして言った。「普通に会社に行って、いい奥さんと結婚して、それで幸せに暮らすわ」彼女はそう断言した。やはり予言のような力強さがその言葉にはあった。
「違うよ」ぼくは必死で否定した。「野球選手になるんだ」
 実際のところ、ぼくは野球なんてあっさりやめて、それなりに勉強をし、まずまずの会社に入り、好条件の転職を二度ほどして今にいたる。まだ結婚はしていないが、それだって無難なところに落ち着くのではないだろうか。彼女の予言通り。
「豪邸に住んで、それでね、あたしは幸せになるんだ」
 こう思い返してみると、彼女には何か生まれながらにして、女王のような風格があったように思う。常に自信に満ち溢れ、迷い無く行動する。幼い時分から、彼女にはそんなところがあった。おそらく、彼女は彼女のいるべき場所に、自然と押し上げられて行ったのだろう。それが彼女を大女優のようにしたのだ。
 翌日も、彼女の死が報道されていた。死因は薬物の過剰摂取のようだった。はっきりとしたところはわからない。これから行われる検視で詳細は明らかにされるようだ。最後に付け加えるように、自殺の可能性が示唆されていた。
 前の日にその報せに接した時には気付かなかったが、彼女が死んだのは、ぼくの住む地域から程近くにあるホテルだった。ぼくは散歩がてらそのホテルまで行ってみた。彼女のファンとおぼしき人々が集まり、さめざめと泣いていた。花束が山と置かれていた。蝋燭に火が灯されていた。テレビのカメラもちらほら見える。その一台が、ぼくに近付いて来た。
「ファンの方ですか?」マイクを向けられ、そう尋ねられた。
「いえ」とぼくは答えた。「違います」そして、ぼくはそこを足早に立ち去った。

No.341

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