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永遠の命と魂と

 男が悪魔と契約して手に入れたのは永遠の命、無限の寿命だった。それと引き換えに、悪魔が手に入れたのは、男が死んだ後の魂の権利である。
 男は首を傾げ、悪魔に尋ねた。
「私が死なないことには、お前さんは私の魂を手に入れられんのじゃないかね?」
「さようでございますな」
「お前さんの私に与えたのは永遠の命だ」
「さようで」
「そうなると、私は死なない。お前さんは私の魂を手に入れられない。さては、なにか裏があるな?」
「滅相もない」と、悪魔は大きく首を横に振る。「一応確認ですが、あなた様に差し上げたのは永遠の命、ただし」
「ほらな、『ただし』がある。裏があるんだ」
「あなた様はそれを途中で降りることができる。つまり、あなたが自分で命を絶つことを除いて、それは永遠の命なのでございます」
 男は悪魔の言葉を一笑にふした。「私が自分の命を絶つ?笑わせないでくれ。残念ながら、お前さんが私の魂を手に入れることは断じてない。私はそんな真似はせんよ。お気の毒さま」
「大丈夫、今にわかりますよ」と悪魔。イッヒッヒッ。悪魔的な笑い。「ところで、魂と引き換えにしてまで永遠の命を得て、何をなさるおつもりで?」
「この世の様々なことを、全て味わうつもりだ。儚い人間の一生では味わい尽くせないほど世界は広く、またそれから得るところも多い。永遠という時間で、それを全て経験するのだ」
「それはそれは」と言うと悪魔の姿が薄れだした。「わたくしめはそろそろおいとまさせていただきます。次にお目にかかるのは魂を頂戴にあがる時になりましょうか」
 男は鼻で笑った。「では二度と会うこともあるまい。なにせ私には永遠の命があるのだからな」
「今にわかります。今にわかりますよ」イッヒッヒッ。悪魔は姿を消した。
 さて、それから男は世界中を巡り様々な体験、経験をした。時が流れれば世界も変化し、また新たな体験、経験が生まれた。もちろん男はそれも経験する。新しい事物は次々と生まれてくるので、枯れない井戸のように、汲み尽くすことはできないかと思われたが、そこは貪欲な男だった。千年ほどたったある日、ついにこの世で経験したことが無いというところまできた。
 いま、男の目の前には青年がいる。若々しい青年である。とはいえ、永遠の命を手にしている男もまた、姿かたちはその青年と大差のない若々しさを持っている。
 青年は目を輝かせて世界を見ている。男の顔の造作は千年前と変わらない。しかし、その表情には陰りが窺える。
「楽しそうだな」男は青年に言った。「何がそんなに楽しいんだね?」
「世界が」青年は答えた。「ぼくの知らないことがまだたくさんあるということが」
「ふん」男は鼻で笑った。青年は肩をすくめ、去っていった。おそらく、輝けるこの世界を探索に出かけたのだろう。彼にしてみれば、それを冷笑するような人間にかまっているヒマなどないのだ。人間の一生はあまりに短く、儚いものなのだから。男はその青年の去って行く後姿をじっと見ていた。それはかつての自分の姿のようであり、失われたものであった。男の眼差しは否定できないほどに羨望のそれだった。男は青年が羨ましかった。知らないことが山ほどある、その青年のことが。そして、ひとつの結論に達した。本当は、もっと前からその結論にいたっていたのだが、認めずにいた結論。
「悪魔よ」男は言った。「お前の勝ちだ」
 悪魔が姿を現した。そして、ナイフを男に差し出す。
「これが、この世で私に唯一残された新しい経験だ」男はナイフを受け取ると、刃を胸に突き刺した。
 悪魔が笑った。


No.459


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