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彼女は月明かりに照らされて

 ある女性と食事をしていた時、きっかけは忘れたが、お互いの初恋についての話になった。アルコールが少し入って舌が軽くなってきたところにちょうどいい無難な話題だったからなような気もするし、ちょっといい感じになりそうな予感があったから、恋とか愛とかの本格的な話の導入部として選んだような気もする。そもそもふたりで食事をするくらいだから、お互いまんざらでもなかったのだろう。ジャブのような会話だ。
 彼女の初恋は、こう言っては何だが、実にありきたりのものだった。幼稚園の頃、足の速いだったか、ひょうきんでおもしろいだかの男の子を好きになったとかいう、よくある話だった。それは本人も認めるところであるようで、
「つまらない話でしょう?」
 と言って苦笑いをし
「なんであのくらいの頃って、そんなことで人を好きになったりしたのかしらね?」
 と言って笑った。
「子供だからかな?」
「あなたの初恋は?」
 学校に上がりたての時分のことだ。放課後、友人たちとボールを使って遊んでいた。どんなルールで遊んでいたのかは思い出せない。適当にボールを蹴っ飛ばしていただけのような気もする。そうしているうちに、高く舞い上がったボールが、木の枝に引っ掛かって落ちてこなくなった。かなり高いところだった。みんなで小石を投げてぶつけて落とそうとしたが、どうやら枝と枝の間にうまい具合にはまってしまったらしくビクともしない。一同が諦めかけた瞬間、彼女が現れたのだ。
 その女の子は、同級生ではあったけれど、一度も話したことはなく、どちらかといえば目立たない子だった。
 彼女は木に両手で取り付くと、スルスルと、まるで猿のように登っていき、あっという間にボールの引っ掛かっているところまでたどり着いた。そして、ボールをこちらに落として、ニコリと笑った。猿蟹合戦の猿みたいだと、そんなことを思った。そして、ぼくはそれで彼女のことが好きになった。
 これは後日談だけれど、彼女はあまりに高いところまで登ったためにかなり目立ってしまったらしく、職員室にいた先生たちにもその行状が露見し、なんて危ないことを、と後でこっぴどくしかられたらしい。ぼくがそれを知ったのはもうすでに彼女が怒られたあとで、彼女をかばってあげることはできなかった。しかしながら、もし彼女がぼくの目の前で怒られていたとしても、彼女をかばえたかどうか怪しいところだ。ぼくは肝心なところで意気地なしだから。
「木登りが上手だったから、その子のことが好きになったの?」
「子供だったからね」
 と言って笑い合った。
 食事を済ませ、駅に行くには遠回りになるけれど、夜風が心地いいということで、公園を通って行くことにした。ちょっといい雰囲気の女性とふたりで歩くにはうってつけの夜。気付けばぼくらは手を繋いで歩いていた。
「私もね」と彼女は言った。「昔、木登りが得意だったのよ」
 そう言うと、彼女は履いていた靴を脱いで裸足になり、靴はこちらに投げて寄越した。そして、手近にあった木の幹に手をかけ、その表面の凹凸を足の指で掴み登っていった。あっという間にてっぺんにたどり着いて、彼女はこちらに「どう?」と誇らしげに叫んだ。ちょうど綺麗な月の出ている夜で、その月の光に照らされた彼女はとても美しかった。
「ぼくと結婚してくれないか?」と遥か高みにいる彼女に向けてぼくは叫ん
 だが、彼女は聞き取れなかったらしく「なぁに」と、間延びした口調で聞き返した。

No.295


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