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言葉、声、文字

 何の取り柄も無い女だった。物を持たせれば不注意に落として壊してしまうし、計算は間違ってばかりだ。物覚えもひどく悪い。器量もさほど良くないし、気も利かない。それでも、読み書きだけはちゃんとできた。とは言うものの、それだって人並み程度で、特に優れていたわけではない。
 女の雇い主は老人だった。女は最初、どんな仕事をさせられるのか知らなかった。老人の身の回りの世話だろう、と思っていた。食事を作り、頼まれた買い物に行き、話し相手になり、もしかしたら下の世話まで。女としては、雇ってもらえればどんな仕事でも構わなかった。勤めていたスーパーマーケットをクビになったばかりで職にありつけただけでも感謝しなければならない。
「読み書きは?」職業斡旋所の受付は女に尋ねた。
「もちろんですとも」女は答えた。
「もちろん?」
「できます」
 職場となる場所の住所を書いたメモを渡し、雇い主である老人が何者かを告げても女が驚かないのを見て、受付は驚いた。
「本当に読み書きが?」
「なぜ?」
「あたしでも読んでるくらい有名な作家さんだよ。誰でも名前を知ってる。あんた、本当に読み書きができるの?」
 屋敷と呼ぶのが適切な大きな家だった。閑静な住宅街の奥も奥、方向音痴の女はもちろん迷子になったし、女でなくとも道を何度か引き返さずには辿り着けないような場所にそれは建っていた。外界から隔絶した場所。
 玄関では老人本人らしき人物が出迎えてくれた。大柄な男で、髪は真っ白になっていたが背筋は伸びている。真っ黒なサングラスをかけていた。女は老人の後について応接間に入った。
「私のことは?」と雇い主である老人に尋ねられて、女は戸惑った。以前どこかで会ったことがあるだろうか?記憶の戸棚を全て開けてみても、手がかりになるようなものは出てこなかった。答えに窮している気配を感じた老人は微笑んだ。
「よろしい。実に良い」
 老人は端的に仕事の内容を説明した。自分の眼は光を失っている。文章を書くのに助けがいる。口述筆記をしてほしい。
 その簡潔な説明を聞く間、女は自分の前に置かれたカップを見ていた。紅茶が湯気を上げている。老人がいれてくれたものだ。眼が見えないなどとは信じられないくらい、自然な動作でそれは運ばれて来た。その様子を察した老人は言った。
「身の回りのことなら何でもできる。文章を書くこと以外ならばね」
 翌日から、女の仕事が本格的に始まった。書斎に通され、机につくように命じられる。女はそれに従う。白く滑らかな原稿用紙、年季の入った万年筆。
「私の使っていたものだ。使いづらければ自分で書くものを持って来てもらって構わない」老人は言った。女は首を振った。振ってから、その動作は老人には見えていないことに気付き「これで平気です」と答えた。老人は微笑んでいた。
 老人は淀みなく話した。女はそれを必死で原稿用紙に書き写していった。それは老人の言葉だったが、女の文字だった。一区切りまでくると、老人は女にそれを声に出して読むように命じた。女はたどたどしい調子でそれを読み上げた。それは女の声だったが、老人の文章だった。
 文章の良し悪しなど考えたこともない女にも、それの美しさはわかった。自分の口から滑り出ていく言葉の連なりの比類なき美しさ、唇にそれらが触れるたびに、女は身震いした。自分の文章が読み上げられている間、老人は頷くこともせず、それを聞いているのか聞いていないのか傍目には見極めがたい様子でじっとしていた。
 仕事を終えると、老人は玄関口まで見送りに出てきた。
「おやすみ」老人が言う。
「おやすみ」女が言う。
 そうして日々が過ぎた。女は老人の語るものが、一つの大きな物語となっていくのを目の当たりにしていた。まるで交響曲のような物語。愛と孤独についての物語だ。そして、女にはそれが着実に結末に近づいているのが感じとれた。女は老人の語るリズムと一体になっていたからだ。
 そして、ついに最後のフレーズを書き留め、女は老人に言われる前に万年筆を置いた。老人は人差し指を立てた。それがまだ続きがあるということだと女にはわかった。女は万年筆を再び手にした。
「愛してる」老人は言った。
 愛してる、と女は原稿用紙に書いた。
「愛してる」と女はそれを読み上げた。
 女は涙を流していた。女自身にも気付かれることなく、それは流れていた。老人の、節くれだって、それでいて大きな指がそれを拭った。その指のぬくもりこそが、それのそこに存在する証明のようだった。
「今までありがとう」と老人は言った。
「こちらこそ」と女は言った。
 女が二度とそこを訪れることはなかった。

No.325

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