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幸せになる方法

 あるところにとても不幸な人がいた。なぜその人が不幸だとわかるかと言えば、その人が
「ああ、わたしはなんて不幸なんだ」と言ったからだ。それを聞いた周りの人々はその人が不幸なんだと思った。確かに、そう言われてみると、不幸そうにも見えてくる。暗い顔をしているように見えるような気がしてくるし、なんだか肩を落としているように見える気がしてくる。
「可哀想に」と、みな口々に言った。そして、不幸な人を見た人たちは、なんとなく不幸な気分になった。なんとなくであるので、なぜかはわからない。なぜかはわからないので、うまくそれを解消することもできない。
「今日、とても不幸な人を見てね」と、帰宅した旦那さんが夕食を食べながら奥さんに言ったりする。「とても不幸そうだったよ」
「まあ」と、奥さんは言ったりする。奥さんは不幸な人の話をする旦那さんがなんとなく不幸そうなので、それを見てまたなんとなく不幸な気分になる。でも、なぜ自分がなんとなく不幸になったのかは、なんとなくなのでわからなくて、原因がわからないと解決のしようがないので、なんとなく不幸なまま、なんとなく過ごす。
「昨日、うちの夫がね」と、奥さんは井戸端会議で話したりする。「とても不幸な人を見たんですって」
「まあ」と、それを聞いた他の奥さんは言ったりする。「そういえば、うちの旦那も見たそうよ」確かに、言われてみると、その奥さんも不幸な人を見た話を聞かされてなんとなく不幸な気分になっているように見える。
「可哀想に」
 学校では息子や娘たちが、とても不幸な人の話を聞いたりする。ちゃんと聞いてない子はなんともないが、ちゃんと聞いていた真面目な子はなんとなく不幸な気分になる。ちゃんと聞いていない子はたいていちゃんと聞いていないので、勉強があまり得意ではないことが多い。あくまでも、そういった傾向があるということだけで、あまりちゃんと聞いてない子でも勉強ができる子はできる。そういうものだ。
 なんとなく不幸な気分になった子供たちは、なんとなく不幸なまま家に帰る。
「ただいま」と、なんとなく不幸な感じで言う。
「お帰りなさい」と、お母さんもなんとなく不幸な感じである。
 こんな具合に、誰もがなんとなく不幸になる。誰もかれもなんとなく不幸なので、それを解消することはできず、そのなんとなくの不幸を見た人はなんとなく不幸になり、それが次から次へと、なんとなく不幸な人を生み、その人を見た人がなんとなく不幸になりと、そうして連鎖していき、気づくと世界中がなんとなく不幸になっていた。とても不幸な人は、そんななんとなく不幸な世の中を見て不幸そうにため息をつく。
「こんな不幸な世の中にいるなんて、なんて不幸なのだろう」
 そんなとても不幸な人を見て、
「ああ良かった、わたしはちょっとは不幸だけれど、あの人ほどではないわ」
という人がいたら、世界は果たして幸福になるだろうか?
「ううん、たぶん無理だよ」
 そうかな?
「わたし、こないだの算数のテスト、全然できなかったんだけど、自分よりダメだった子探しても、それで?って感じだったもん」
 じゃあ、どうしたらいいかな?
「わかんない。笑って、幸せそうにしたら、きっと幸せが連鎖するんじゃないかな?」
 ところで、そんな算数のテストのこと、初めて聞いたんだけど。
「ほら、笑って笑って」

No.345

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