モラトリアム【オリジナルSS】

モラトリアム


ようやく解放される、寂しさよりもそんな安堵感が勝っていた。
今日も彼は誰よりも早く出社していた。悟られないよう挨拶は軽めに、彼が用意したコーヒーを啜りながらメールを確認する。これが日課になっていた。たまに話しかけられるほとんど他愛のない世間話に、私はまた悟られないように適当に合わせ、そのうちに他の社員が出社してくる。これもあと一週間で終わる。

彼は本社からの出向社員として二年前にこの小さな営業所にやってきた。ごく普通の青年、ただ、今時の若者にしては妙に人懐こく、年上ばかりの営業所では随分可愛がられたのではないかと思う。飲み会にも積極的に参加し、さりげない気遣いが出来るなと感心していたものだ。それが今ではどうだ。彼に対して抱く感情は少しずつ、歪んできたのではないか。

自覚したくはなかったが、「いつから」と問われれば一年前に一泊二日の出張に同行したときではないかと思う。行く先々では彼は気に入られ、仕事は順調に進んでいた。しかし、接待の飲みの席で勧められるままにお酒を飲まされた彼は酔っ払い、私がその世話をしなければならなかった。なんとかタクシーに乗せ、なんとかホテルの部屋まで辿りついたものの、あまりにも体調が悪そうなので放っておけず、ベッドに寝かせたあとにソファーに座りながらしばらく寝顔を眺めていた。彼が来てからのことを思い出していく中で気がついたことは、なんだか機嫌の良い自分自身だった。彼は人懐こい割に自分のことを多く語ることはなかった。私は彼のプライベートをなんにも知らなかった。彼女はいるのか、もしかしたら結婚しているのか?年は確か一回り下で、「早寝早起きが好きなんです。」と笑いながら一番に出社し、美味しいコーヒーを淹れてくれる。そんなことしか知らなかったのだ。仕事中の真面目な表情、誰かと会話するときの愛嬌のある笑顔、それ以外も知らなかった、この酒に飲まれた状態を見るまでは。
知らないようにしてただけなんじゃないか?ふとそんなふうに思った。知ってしまえば、更に惹かれてしまうと思ったから。いや、そんなことはない。頭の中に浮かぶ気づかないようにしていた感情を振り払うように、部屋をあとにしようと立ち上がると、ソファーの鳴る音で彼が小さくうめき声を上げた。

「部長すいません…もう少しいてもらっても、いいすか…。」

思いもしなかった彼の言葉に思わず戸惑った。そっけない返事をし、再び座り直した。
ここにいちゃいけないと思った。邪な感情があったから、逃げたかった。きっとここで自覚した、私が彼に抱く許されざる感情に。

「(ここのセリフは考えてください)」

寝息を立てはじめた彼に聞こえるか聞こえないかくらいの声でそう告げて、備え付けの冷蔵庫からペットボトルを取り出し、枕元にそれを置いて私は自分の部屋へ逃げた。考えないようにすぐ着替えて缶ビールをひと缶一気に飲み干し寝た。

それ以来は戦いだった。こみ上げてくる自分の感情を必死で押し殺し、いつもの私を演じていた。その時点でもう私は私ではなくなっていたように思う。話しかけられれば浮足立ち上そうになり、私以外と話している姿を見ると心が掻き毟られたようにざわつき、そして出向の期限が迫っている旨のメールが届いたときには、大きな悲しみに襲われた。かき乱される感情との戦いだった。

しかしそれもあと僅かで終わる。彼がいなくなるまであと一週間。もう送別会も済ませ、私の知る限り何名かの女子社員は泣いた。思いを告げる者がいたことも耳にしている。それだけ小さな営業所なのだ。私のことは悟られてはいけない、何者にも。ただ、あと残された一週間だけ、彼の淹れたコーヒーを味わい、静かで澄んだ朝の空気を共有すること、それだけを許して欲しい。


End.



【後書き】

キーワードは「モラトリアム」「期限付きの恋愛」

RadioTalk内の「ポプテピラジオ」という企画で用意した台本のうちの1本です。企画の性質上、セリフを自分で考える箇所がありますが、あえてそのままにしてあります。好きなセリフを入れてください。

omoinotakeの「モラトリアム」という曲のイメージで書きました。


この曲のMVの世界観がBLなので、主人公の性別は明記していません。これも好きなように解釈してください。

この作品は著作権フリーです。
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