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第72回藝大卒展(第2会場)みて思ったこと

例によってあんま行く気なかったんだけどごはんを食べに行ったら近くまで来てしまったので結局行った件
行くのが遅かったので学校(第2会場)しかみてない

結果あることを思ったのでそれについて書く
文中敬称略

※24.01.29 誤字訂正と同時に結語を追加



第2会場で写真とったもの

何かしら気になったので写真に撮ったものをずらずら並べる
所属はなんかあんま意味ない気もするのでスルーで

▼魏路生 WEI Lusheng

工芸の入口近くに展示されてたもの

魏路生 螺旋からの進化
同部分
同部分

螺旋からの進化
生命の形は興味深い構造で溢れている。
またそれらは単に外見としての殻の形で存在するだけではなく、ひとつのピースから形を拡げ、包み込むようにしてさらに形を形成していく。 そのように生まれたかたちの外部と内部の間には連続的な構造が保たれている。
大学院に在学して日々学ぶ中で三木成夫氏の生命形態学の研究に出会った。
螺旋状の宇宙電波とさまざまな生命体の起源関係に関する推測で、私はこの内容から進化の歴史における万物の成長には何らかの対応関係があるのではないかと考えた。
私はこの考え方について関心を深め、 今回の修了制作で耳とリンゴの内部の解剖構造に基づいて、耳とリンゴ、三半規管と種、鼓膜と子房などの構造要素を融合することにより、仮想的な生命体を造形した。
このように構築された非現実的なもので私たちの生活の中に存在しつつも、見ることができない生物の進化の間にあるつながりを表現する。
できた造形を解剖学的にみると内部の構造がある。
その内部空間には手の届かない部分もあるため、制作した粘土原型をスキャンし、出力したデータによる原型をパソコンで内側に広がる形として微調整するといった工程で形に起こしている。

ステートメント

耳といえば三木富雄の耳(あなたの保険)だが、こっちは三木成夫の著作から構想したものって書いてあった
それに耳っていうよりリンゴでもあるようなので、動物とか植物とかそういう垣根を超えた形の類似に注目した方がいいような気もする

▼柏木崇吾 KASHIWAGI Shugo

先端で見た
全体が暗室になってて「かっこよ!」っていう展示が多かったが、興味深かったのは写真の作品

柏木崇吾 作品名不明

この影がよく、どう見せたいかの意思を感じた
ちょうど人物の胸にひびのように影が落ちるのがナイス!

で、公式は以下なんだが、こっちは写真の隣にあった作品なので同じ作品名でいいのかどうかがわかってない(なので不明にした

↑の作品の隣にあった、という状況が前提にあるが、なんていうかドクメンタ5(72年)くらいの空気感を感じた
このときのボイスの展示を河原温と一緒にみた針生一郎が感激しちゃってボイスボイス言い出しちゃうときだ
隣には例によって若干グロいキーンホルツが展示されてたそうだが、この作品にはキーンホルツとかシーガルとかの雰囲気もある
まあそこそこ精巧な人体つくったらぜんぶシーガルじゃんと言えなくもないが、でもこれは少なくともクラインのアルマンじゃないとは言いたい

まだ話は続くが後にまとめてやりたいのでとりあえずこんなところ

▼河津晃平 KAWAZU Kohei

解体されるビルの映像とそこからとってきたもろもろの素材を展示したインスタレーション
解体される前に丁寧に清掃するなどした、という話が書いてあったと思う

 河津 晃平 あなたの灰の中の骨へ、骨の中の灰へ(部分)

このケーブルがよかった
ケーブルだけの方がよかったんじゃないかと思うぐらい
とか言っておきながら、ひしゃげた鉄管、コンクリートのガラなどもそれぞれ存在感あってよかった

他の展示にも感じたが、都市の破壊と再生、というかそもそも題材が街なのでこの辺はストリートアートの文脈で見るべきなんかもしんない

▼永野愛佳 NAGANO Aika

油画で見たもの
特に変わった作品というわけではないが、しっかりしたコンセプトがあるように思ったので撮った絵

永野愛佳 冬晴れの朝

なんちゅうか、いわゆる「余白の美」的なものはよくあるけど、それが画題の存在感とかみ合っているのがいいと思ったっすね

なお、展示ステートメントをキュレーターになりきったgpt君に要約してもらった文章は以下だ

永野愛佳の美術展示「晩翠のすみか」は、日本絵画の伝統における「間」の概念に焦点を当てたものです。この展示では、画面の余白を光として捉え、それを有限の空間として表現しています。白を基調とした色使いは、時間や季節の変化を象徴し、作品に深みを与えています。展示方法も独創的で、鑑賞者の視線を自然と作品に引き込むよう計算されています。このアプローチは、日本の美術における虚実の感覚を現代的な視点で再解釈し、油彩という媒体を通じて新たな表現を探求しています。

要約gpt4

ミニチュアというかマケットというか、こんな小品もあった

永野愛佳 流れる雲

▼日向慶次 HINATA Keiji

自分的には衝撃のあった作品、理由はあとで書く
もう時間なくて焦ってたため写真がひどいのが悔やまれるが、まあ公式の画像でもわかるのでそっちみてちょ

日向慶次 力の習作 浮き橋より
前の写真の作品の一部なのかどうかはわからんけど壁にはこういうのが並んでた
飛び跳ねてるドロ

も、もの派?! バカな!爆破したはず!! っていう衝撃
もちろん全然まんまではないが、それでもかなり「もの派」味は強い

土の塗りたくられた箱の上に立つ木は関根伸夫、菅木志雄、菊畑茂久馬(←奴隷系図だけじゃんという突っ込みはあるが)らを感じ、周りの木々&箱は菅木志雄とドナルド・ジャッドの作品とかを思い出す

▼齋藤弥主子 SAITO Yasuko

衝撃作その2
関係ないが、とにかく作品名が長い

齋藤弥主子  天■を抱きてそこにある、汝、絶界の■■■■と有、其は今世の■■■なりや

全体が映りきってないが、とりあえず主要部分はこんな感じで

展示の一部

この壁に何となく立てかけられてる無機質な物体
かつて鉄骨とか枕木とか自然木だったりしたアレに見える

実は手が生えてる
スマホ部分

という展示だった

同じようにキュレーターgpt君にステートメントを要約してもらったのは以下

斎藤弥主子の作品は、現代社会のデジタル化とその影響に焦点を当てています。彼女は、スマートフォンやインターネットが生活に与える影響を探求し、この変化を自然な進化として捉えています。彼女は批判的な視点からではなく、この新しい現実に適応し、それを受け入れることを提唱しています。斎藤は、デジタル世界における人間の存在や、孤独とつながりの新しい形を探求し、断片化された情報の海の中で自分たちのストーリーを構築する現代人の姿を描いています。彼女の作品は、デジタル時代の人間の適応力と創造性を讃え、その中で見出される美しさと個々の孤独への共感を表現しています。

要約gpt4

▼齊藤慈 SAITO Megumi

でかかったやつ
なぜか公式真っ白

齊藤慈 1M(部分)
齊藤慈 1M(部分)

どうやって描いたのかわかんないが、出力だけで見るとバキバキのアクションペインティングに思える
床の汚れがハトのふんみたいな痕跡になっててよかった

▼中根惇 NAKANE Jun

衝撃作その3
いまみたら壁画のひとだった

中根惇 Good Seasoning Fruitsのための習作
同展示の一部(ブレブレやん・・・)

これもかなりもの派味が強い
入口をアボカドで封鎖しようとして拒否され、仕方なく庭にアボカドを埋めるが、やがて忘れられて多摩美の上野毛キャンバスに保護されるまでやってくれれば尚一層よかった気もする(←リチャード・セラ

関根伸夫の東京画廊での展示がこんな風に土砂運び込んでギャラリーに積み上げるやつだったが、彦坂尚嘉は土砂は表面だけで中身はハリボテじゃねーーか!よくそれで「ものそのもの」とか言えたなと(彦坂チャンネルで)批判している

この作品もアボカドは本物ではなく、手作業で作った作り物なので「もの」より(それと対立する)「概念派」に近い

gpt君の要約は以下

中根惇の作品「Good Seasoning Fruits」は、現代社会の便利化とその結果についての深い洞察を提供します。この作品は、「いい塩梅の結果」という意味を持ち、苦労や忍耐、勤勉、善行が良い結果を生むというニュアンスを込めています。中根は、アボカドの栽培を例に、便利化が自然環境や人々に与える影響を指摘しています。彼の作品は、結果だけを追求するのではなく、プロセスのバランスを重視することの重要性を強調しています。2000個の手作りアボカドは、現代の便利化の流れに逆行する行為であり、彼にとっては果実の栽培と同等の意味を持ちます。彼は、持続可能なバランスを求めつつ、不確定な未来を生き抜くことで、命の源となるフルーツを実らせることを望んでいます。この作品は、現代の技術と自然のバランスを見つけることの重要性を視覚的に示しています。

▼鴫原夕佳 SHIGIHARA Yuka

やりたいことが明確かつ作品もよかった展示
ヘリオグラフィーが起点としてあり、そっから作るべき画面を想起してると書いてあった
ちな展示タイトルは「疑いもなくすべては生き生きとした現実で」

抽象画はやっぱり鑑賞ハードル高いと思うが、この作家の作品は特に考えることもなくふつうによく見えた

鴫原夕佳 アトリエの窓からの眺め

ヘリオグラフィーの画像
それが何かというのは以下参照

絵画制作を始める少し前、 私はカメラをつくっていた。 現代のカメラの原型である「カメラ・オブスクラ」 という装置で、 箱型のものだ。 箱の前面にはレンズがついており、レンズを通り抜けた光が内部のスクリーンに像を結ぶ。 この仕組みは人間 の目によく似ていて、レンズは水晶体、 スクリーンは網膜のような役割を果たしている。 私はもっぱら、 カメラ・オブスクラ に窓外の風景を写した。 あえてピントをずらして木々と空の境界を曖昧にし、 日没によって徐々に消えゆく像を眺めた。
私はこのような像をどうにかして形にしたいと考え、ヘリオグラフィーという技法に辿り着いた。 ヘリオグラフィーとは、 現存する世界最古のカメラ写真 「ル・グラの窓からの眺め」 で使われた技法である。

ステートメントより抜粋

で、このような印象を画面に定着させようとして制作しているというのが以下の平面作品だ
(ちなみにどれがどれだかはメモってないので題名は特に書かない

なんか写真だといまいちよさが伝わらないが、実際すげえよく見えたっすよ、ということだけ言っておきたい
キュレーター目線gpt君のステートメント要約を最後に残しとく

鴫原夕佳の「令和5年度大学院修了制作展」の終了ステートメントは、彼女の芸術作品と制作過程への深い洞察を提供します。「疑いもなくすべては生き生きとした現実で」という言葉は、彼女に強い印象を残した小説の一節から引用されており、その言葉が彼女の創造的プロセスに深い影響を与えたことを示しています。彼女は日常生活の瞬間や風景の生き生きとした現実性に着目し、これを絵画に表現することを目指しています。鴫原は、カメラ・オブスクラの使用やヘリオグラフィーという古典的な写真技法を探求し、これらの技法を通じて実際の光景とは異なるイメージを捉えることに成功しました。彼女の作品制作では、キャンバスに油絵具を塗り重ね、下地の厚みの差によって生じる自然な像を大切にしています。この制作プロセスは、偶然と計画性が交錯し、予期せぬ美しさを生み出すことを彼女は重視しています。鴫原にとって、イメージの中に現れる喜びが重要であり、彼女の絵画はその喜びを視覚化したものです。

▼奥村美海 OKUMURA Minami

キャラクター解体系絵画かと思ったら違っていた
展示が工夫されており、不思議な浮遊感があった

 奥村美海 Perspective structures of Palimpsest
同部分
同部分

「絵画空間」ってよくいうが、それを実体化した作品
そもそも線が錯綜しているので、こういうこみいった展示形式と相性がよいのかもしんない
キュレータづらしたgpt君のまとめは以下

奥村美海の作品「Perspective structures of Palimpsest」は、家族の置き手紙や歴史的建造物の落書きなど、様々な筆跡をモチーフにしたドローイングと絵画です。彼女はこれらの筆跡を自身の手でトレーシングし、再構成しています。このアプローチの背景には、彼女の家族が経営する干物屋の帳簿があります。この帳簿には、子供の落書きと祖父の仕事の記録が交錯し、多層的な空間を形成しています。展示作品「帳簿_塩」は、この帳簿をベースにしており、筆跡の時空や文脈が重なり合う複合的な空間を表現しています。彼女の作品は、大小様々なキャンバスのパーツが吊られ、筆跡が層をなして構成されており、観客は近視眼的と俯瞰的な視点を行き来しながら作品を鑑賞します。これにより、日常的でありながらも歴史的な文脈を持つ筆跡の新たな価値を探求しています。

▼吉原遼平 YOSHIHARA Ryohei

衝撃そのX(何個目か忘れた
とりあえず全体像は以下

吉原遼平 Respatialized World

写真だとわかりにくいが、真ん中右寄りにある石の上でLEDが点滅してる

同作品

これだともうちょいわかりやすい
石は加工されててレンズとかアンテナっぽいものが埋め込まれてる

同アップ

ちょうど見てたとき作家(だと思う)が子供に説明していた
「衛星からの電波が来てて光る。なのでそれがこないと光も消える」的な説明だったと思う

まあそれはいいとして(ええんかい)、これみたときに自分の中にあった疑問が確信に変わった

もの派復活?

こっからかんそうパートなんだけど、いいたいことは ↑ だ
自分が紹介した作品の中で、もの派およびそれと近い時代からの影響を感じたのを整理すると以下

▽もの派味 濃いめ

  • 日向慶次の作品(土の土台に木)

  • 齋藤弥主子の作品(四角い石にスマホとモニター)

  • 中根惇の作品(アボカド雪崩)

  • 吉原遼平の作品(メカ石庭)

▽もの派味 薄め

  • 河津晃平の作品

特に濃く感じた上段の4つの作品に絞って話を進める

◆似てるのはたぶん表面だけ

冷静に考えると令和にもの派が復活するワケはない
なんで自分が感じるもの派味はガチではなく見た目なんだろうと推測できる。何しろ、もの派よりはるかに造形的
 還元主義だったもの派は、作るんじゃなくて「ものそのものとそのものの関係」関係項とか出会いとか言ってた)に芸術を見出そうとしてたので手を加えてないものの配置が重要だった
 が、↑で見てきた作品はほぼ手の込んだ造形が施されてるので本質的にはもの派ではない

※もちろん、もの派も(いわゆる)「ポストもの派」に移行していくところで造形的になったり平面に回帰したりするが、正直「ポストもの派」はもの派からの逸脱をまとめた呼称に近く、わかりやすいポストもの派があったわけじゃない

◆もの派にはない思想

メディア文化(斎藤作品)、SDGsやスローフード運動(中根作品)があり、ステートメント読んでないので憶測だが、吉原作品はスペースXがある時代の大地と宇宙の関係性の表現ともとれる
ので、特にそういう感じがない作家は1名(日向作品)だけになる

もの派は「もの」による美術それ自体をテーマにしてたため、そこに別のテーマが入り込む余地はなかったが、今はがんがん詰め込めてて「ピーマンの肉詰め」に例えると「ピーマン部分がもの派要素」になる

つまりもの派っぽい見た目はガワ=様式になってるはず

◆なんでそうなったのか

いくつか考えられるがまったくの妄想だ
尚、いくつかといいつつ2つしか思いつかんかった

仮説1:先生の世代が入れ替わった説
 
藝大に関係してる「ギリもの派と接点があった世代」は小沢剛とか
 もの派>ポストもの派>スモールビレッジセンター(小沢剛、村上隆、中村政人)の流れで、ポストもの派には「もの派」の人もいる以上、いちおう世代的かすってる
 これはよくも悪くもポリシーというか思想性があったことになるが、そういうのはここまでで、あとの世代はそんなの完全になくなる
 なんでもしかすると、「もの派はこう!」みたいなうるさい先生が消え気軽に実装できるようになった結果なんかもしんないという説

仮説2:生存戦略説
 世界に知られる日本の運動は3つある。具体、もの派、スーパーフラットだ。エスニシティで戦う場合、どれか実装すればかなり武器になりそう
 
スーパーフラットは無自覚に実装されるので無視すると残るのは具体ともの派だがどう考えても「もの派」一択になる。何しろ具体には具体っていうスタイルがないからだ

まあどっちもそうだと思うのでいろいろ複合的に様式として実装されているのが今の「もの派」風味の正体なんだろう
この「ポスト-ポストもの派」に自分は以下の名前をつけとく

シン・もの派

ネオもの派とかじゃねえのかよ、と思うやつもいると思うが、シンゴジラがゴジラの精神性を特に受け継がない新たな作品だったのと同じく「シン・もの派とは、もの派の還元主義を特に受け継がず、ワビ・サビにも通じる外見の特徴のみを引用することで、現代的な問題、課題の包装を可能にする、解体され様式化したもの派」なんじゃよ!!

とかなんとか言ってるが、SDGs的な視点でミニマルアートのような作品を構成したり、アクションペインティングの手法が再び現れたりしてるのを見ると、単に古いものが一周して回帰してるだけな可能性も高い

齋藤弥主子はそのステートメントの最後にこう書いてる

私はそんな世界に美しさを見たいという想いでこの作品を作った。あるいは、そこにある一人一人の孤独へ寄り添いたかった。讃歌を捧げたかった。苦しみはあれど、 覗く液晶画面の向こうには無機質なサーバーのファンの音ばかりが響くのではない。
それが今であり、これからを生きるという事だ。 だから、そのままでいるものだと思う。 懐古主義的な批判に耳を貸さなくていい。そこにいるあなたがこの時代の前線なのだと思う。

太字記事執筆者

懐古主義的な批判に耳を貸さなくていい。そこにいるあなたがこの時代の前線なのだ
おっしゃる通り!!!
こういう外野のやじなんか無視して進んで行ってもらいたい


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