第72回藝大卒展(第2会場)みて思ったこと
例によってあんま行く気なかったんだけどごはんを食べに行ったら近くまで来てしまったので結局行った件
行くのが遅かったので学校(第2会場)しかみてない
結果あることを思ったのでそれについて書く
文中敬称略
※24.01.29 誤字訂正と同時に結語を追加
第2会場で写真とったもの
何かしら気になったので写真に撮ったものをずらずら並べる
所属はなんかあんま意味ない気もするのでスルーで
▼魏路生 WEI Lusheng
工芸の入口近くに展示されてたもの
耳といえば三木富雄の耳(あなたの保険)だが、こっちは三木成夫の著作から構想したものって書いてあった
それに耳っていうよりリンゴでもあるようなので、動物とか植物とかそういう垣根を超えた形の類似に注目した方がいいような気もする
▼柏木崇吾 KASHIWAGI Shugo
先端で見た
全体が暗室になってて「かっこよ!」っていう展示が多かったが、興味深かったのは写真の作品
この影がよく、どう見せたいかの意思を感じた
ちょうど人物の胸にひびのように影が落ちるのがナイス!
で、公式は以下なんだが、こっちは写真の隣にあった作品なので同じ作品名でいいのかどうかがわかってない(なので不明にした
↑の作品の隣にあった、という状況が前提にあるが、なんていうかドクメンタ5(72年)くらいの空気感を感じた
このときのボイスの展示を河原温と一緒にみた針生一郎が感激しちゃってボイスボイス言い出しちゃうときだ
隣には例によって若干グロいキーンホルツが展示されてたそうだが、この作品にはキーンホルツとかシーガルとかの雰囲気もある
まあそこそこ精巧な人体つくったらぜんぶシーガルじゃんと言えなくもないが、でもこれは少なくともクラインのアルマンじゃないとは言いたい
まだ話は続くが後にまとめてやりたいのでとりあえずこんなところ
▼河津晃平 KAWAZU Kohei
解体されるビルの映像とそこからとってきたもろもろの素材を展示したインスタレーション
解体される前に丁寧に清掃するなどした、という話が書いてあったと思う
このケーブルがよかった
ケーブルだけの方がよかったんじゃないかと思うぐらい
とか言っておきながら、ひしゃげた鉄管、コンクリートのガラなどもそれぞれ存在感あってよかった
他の展示にも感じたが、都市の破壊と再生、というかそもそも題材が街なのでこの辺はストリートアートの文脈で見るべきなんかもしんない
▼永野愛佳 NAGANO Aika
油画で見たもの
特に変わった作品というわけではないが、しっかりしたコンセプトがあるように思ったので撮った絵
なんちゅうか、いわゆる「余白の美」的なものはよくあるけど、それが画題の存在感とかみ合っているのがいいと思ったっすね
なお、展示ステートメントをキュレーターになりきったgpt君に要約してもらった文章は以下だ
ミニチュアというかマケットというか、こんな小品もあった
▼日向慶次 HINATA Keiji
自分的には衝撃のあった作品、理由はあとで書く
もう時間なくて焦ってたため写真がひどいのが悔やまれるが、まあ公式の画像でもわかるのでそっちみてちょ
も、もの派?! バカな!爆破したはず!! っていう衝撃
もちろん全然まんまではないが、それでもかなり「もの派」味は強い
土の塗りたくられた箱の上に立つ木は関根伸夫、菅木志雄、菊畑茂久馬(←奴隷系図だけじゃんという突っ込みはあるが)らを感じ、周りの木々&箱は菅木志雄とドナルド・ジャッドの作品とかを思い出す
▼齋藤弥主子 SAITO Yasuko
衝撃作その2
関係ないが、とにかく作品名が長い
全体が映りきってないが、とりあえず主要部分はこんな感じで
この壁に何となく立てかけられてる無機質な物体
かつて鉄骨とか枕木とか自然木だったりしたアレに見える
という展示だった
同じようにキュレーターgpt君にステートメントを要約してもらったのは以下
▼齊藤慈 SAITO Megumi
でかかったやつ
なぜか公式真っ白
どうやって描いたのかわかんないが、出力だけで見るとバキバキのアクションペインティングに思える
床の汚れがハトのふんみたいな痕跡になっててよかった
▼中根惇 NAKANE Jun
衝撃作その3
いまみたら壁画のひとだった
これもかなりもの派味が強い
入口をアボカドで封鎖しようとして拒否され、仕方なく庭にアボカドを埋めるが、やがて忘れられて多摩美の上野毛キャンバスに保護されるまでやってくれれば尚一層よかった気もする(←リチャード・セラ
関根伸夫の東京画廊での展示がこんな風に土砂運び込んでギャラリーに積み上げるやつだったが、彦坂尚嘉は土砂は表面だけで中身はハリボテじゃねーーか!よくそれで「ものそのもの」とか言えたなと(彦坂チャンネルで)批判している
この作品もアボカドは本物ではなく、手作業で作った作り物なので「もの」より(それと対立する)「概念派」に近い
gpt君の要約は以下
▼鴫原夕佳 SHIGIHARA Yuka
やりたいことが明確かつ作品もよかった展示
ヘリオグラフィーが起点としてあり、そっから作るべき画面を想起してると書いてあった
ちな展示タイトルは「疑いもなくすべては生き生きとした現実で」
抽象画はやっぱり鑑賞ハードル高いと思うが、この作家の作品は特に考えることもなくふつうによく見えた
ヘリオグラフィーの画像
それが何かというのは以下参照
で、このような印象を画面に定着させようとして制作しているというのが以下の平面作品だ
(ちなみにどれがどれだかはメモってないので題名は特に書かない
なんか写真だといまいちよさが伝わらないが、実際すげえよく見えたっすよ、ということだけ言っておきたい
キュレーター目線gpt君のステートメント要約を最後に残しとく
▼奥村美海 OKUMURA Minami
キャラクター解体系絵画かと思ったら違っていた
展示が工夫されており、不思議な浮遊感があった
「絵画空間」ってよくいうが、それを実体化した作品
そもそも線が錯綜しているので、こういうこみいった展示形式と相性がよいのかもしんない
キュレータづらしたgpt君のまとめは以下
▼吉原遼平 YOSHIHARA Ryohei
衝撃そのX(何個目か忘れた
とりあえず全体像は以下
写真だとわかりにくいが、真ん中右寄りにある石の上でLEDが点滅してる
これだともうちょいわかりやすい
石は加工されててレンズとかアンテナっぽいものが埋め込まれてる
ちょうど見てたとき作家(だと思う)が子供に説明していた
「衛星からの電波が来てて光る。なのでそれがこないと光も消える」的な説明だったと思う
まあそれはいいとして(ええんかい)、これみたときに自分の中にあった疑問が確信に変わった
もの派復活?
こっからかんそうパートなんだけど、いいたいことは ↑ だ
自分が紹介した作品の中で、もの派およびそれと近い時代からの影響を感じたのを整理すると以下
▽もの派味 濃いめ
日向慶次の作品(土の土台に木)
齋藤弥主子の作品(四角い石にスマホとモニター)
中根惇の作品(アボカド雪崩)
吉原遼平の作品(メカ石庭)
▽もの派味 薄め
河津晃平の作品
特に濃く感じた上段の4つの作品に絞って話を進める
◆似てるのはたぶん表面だけ
冷静に考えると令和にもの派が復活するワケはない
なんで自分が感じるもの派味はガチではなく見た目なんだろうと推測できる。何しろ、もの派よりはるかに造形的だ
還元主義だったもの派は、作るんじゃなくて「ものそのものとそのものの関係」(関係項とか出会いとか言ってた)に芸術を見出そうとしてたので手を加えてないものの配置が重要だった
が、↑で見てきた作品はほぼ手の込んだ造形が施されてるので本質的にはもの派ではない
※もちろん、もの派も(いわゆる)「ポストもの派」に移行していくところで造形的になったり平面に回帰したりするが、正直「ポストもの派」はもの派からの逸脱をまとめた呼称に近く、わかりやすいポストもの派があったわけじゃない
◆もの派にはない思想
メディア文化(斎藤作品)、SDGsやスローフード運動(中根作品)があり、ステートメント読んでないので憶測だが、吉原作品はスペースXがある時代の大地と宇宙の関係性の表現ともとれる
ので、特にそういう感じがない作家は1名(日向作品)だけになる
もの派は「もの」による美術それ自体をテーマにしてたため、そこに別のテーマが入り込む余地はなかったが、今はがんがん詰め込めてて「ピーマンの肉詰め」に例えると「ピーマン部分がもの派要素」になる
つまりもの派っぽい見た目はガワ=様式になってるはず
◆なんでそうなったのか
いくつか考えられるがまったくの妄想だ
尚、いくつかといいつつ2つしか思いつかんかった
仮説1:先生の世代が入れ替わった説
藝大に関係してる「ギリもの派と接点があった世代」は小沢剛とか
もの派>ポストもの派>スモールビレッジセンター(小沢剛、村上隆、中村政人)の流れで、ポストもの派には「もの派」の人もいる以上、いちおう世代的かすってる
これはよくも悪くもポリシーというか思想性があったことになるが、そういうのはここまでで、あとの世代はそんなの完全になくなる
なんでもしかすると、「もの派はこう!」みたいなうるさい先生が消え、気軽に実装できるようになった結果なんかもしんないという説
仮説2:生存戦略説
世界に知られる日本の運動は3つある。具体、もの派、スーパーフラットだ。エスニシティで戦う場合、どれか実装すればかなり武器になりそう
スーパーフラットは無自覚に実装されるので無視すると残るのは具体ともの派だがどう考えても「もの派」一択になる。何しろ具体には具体っていうスタイルがないからだ
まあどっちもそうだと思うのでいろいろ複合的に様式として実装されているのが今の「もの派」風味の正体なんだろう
この「ポスト-ポストもの派」に自分は以下の名前をつけとく
シン・もの派
ネオもの派とかじゃねえのかよ、と思うやつもいると思うが、シンゴジラがゴジラの精神性を特に受け継がない新たな作品だったのと同じく「シン・もの派とは、もの派の還元主義を特に受け継がず、ワビ・サビにも通じる外見の特徴のみを引用することで、現代的な問題、課題の包装を可能にする、解体され様式化したもの派」なんじゃよ!!
とかなんとか言ってるが、SDGs的な視点でミニマルアートのような作品を構成したり、アクションペインティングの手法が再び現れたりしてるのを見ると、単に古いものが一周して回帰してるだけな可能性も高い
齋藤弥主子はそのステートメントの最後にこう書いてる
「 懐古主義的な批判に耳を貸さなくていい。そこにいるあなたがこの時代の前線なのだ」
おっしゃる通り!!!
こういう外野のやじなんか無視して進んで行ってもらいたい
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