所蔵作品展「MOMATコレクション」@"これも石橋さんの寄贈"国立近代美術館
メイキング・オブ・ムナカタ(棟方志功展)がぜっさん開催中だが、こちとら青森で見てきたので東京ではスルー
というわけでコレクション展(と「女性と抽象」展)を見に行ってきた
いろいろと興味深い作品をみれてよかった
昔の作家が見たくていった(コレクション展ってそういうもんだろうし)ので、↑のカバーイメージの作品が一番興味なかったりする・・・
ところでMOMATってなによ
どうせ「MOMA」(NY現代美術館)っぽい略称ほしかっただけちゃうんっていうのは下衆の勘ぐりだが、
らしいんだけど、なんかおかしくね?
国立近代美術館に東京要素ねえのに、なぜかしれっとtokyo入ってんのがアレじゃね?という感じがする
NASAに対するNASDA(宇宙開発事業団)的アレさだ
どうせなら、NHK(Nihon Houso Kyokai)とかKEK(Koh Enerugii butsurigaku Kenkyuusho)みたいに「英語? なにそれ」な略称でいった方がいいんではないかいと思わんでもない
まあ日本人は「近美」って読んでるから「Kinbi」がいいのかもしんないっすね
自分案としてはまず「Kin-bi」、3文字略称としては「NKB」(National Kin-Bi)を推していきたい
どうしても東京って入れたい!って場合は「NKBT」(National Kin-Bi, Tokyo)でもいいが、なんかNKVD(スターリンのあれ)っぽくてやだな
そもそも近美の成り立ちについて
設立は1952年で、もともと京橋にあった
なんで京橋かっていうと、金なくて日活のいらんビルを買って美術館にしたせい
↓なのでこの開館記念の展示は京橋の方の旧美術館ということになる
ちなみに中はめっちゃふつうのビルで、中にびっしり絵がならぶ団体公募展っぽい展示風景。そこにロックフェラー夫妻とか招待してんのはすごい
後に何度か増築したがさすがに限界が来る。特に搬入トラックがつけらんないのが致命的だったっぽい
当然移転の話がでるが、例によって金も土地もない
(移転したの69年なのでもう高度経済成長期だが、新幹線も「貨物もやります!」と世銀にかまして融資もらったくらいなので本当に金なかったはず
土地の方は「公文書館建てる予定地の一部を使う」で決着したわけだが、逆に公文書館どんだけデカイの作るつもりやったん、という気もする
しかし、金はどうやってもない
結局美術界あるあるで、結局こまったときにはブリジストンに何とかしてもらうが発動し、石橋さんが建てて国に寄贈(ヴェネチア・日本館につづいて2度目)でいまのアレになる
って歴史を見ると、展覧会を新聞社がやるのがどうとかそういう話もあるが、そもそも日本の美術・芸術界隈に集金力がないのが問題なわけで、「文化行政がしょぼい」と言っちゃう気持ちもわかるが、「なら金引っ張って来いよ! LUUPはちゃんとやってっぞ!」という気持ちにもなる
前置きはこれくらいで以下展示内容
尚、文中敬称略
第1~3室
なんかもうちょっとちゃんとした区分あった気がすんだけど部屋で分けた方がリストとの対応がしやすいので部屋でわける
1~3室はろくに写真とってないので駆け足でいく
・1室
個人的に興味があったのは、この人のせいで青龍社が「とにかくでかい絵」になったという川端龍子(りゅうし)
展示されていた「草炎」は屏風装だったのででんいけどそこまででかくはない
あとは原田直次郎の騎龍観音
これ解説に「足場がせまくて綱渡りしてるみたい」って当時文句言われたと書いてあったが、実際にみてもマジでそう思った
・2室
紫紅、華岳、岸田、安井、吉田博と引き続き有名どころが出てくるターンだが特に写真はとらず
中沢弘光の作品(「おもいで」)がもろアールヌーボーというかミュシャ感あった
・3室
ぜんぜん知らない人だが十亀広太郎の「顔」がいい絵
後にシュールレアリスムにいく古賀春江のまだシュールまでいってない作品が興味深い。「この人が後にあの「海」を描くのかぁ」と思ってみると片鱗があるような気分になる
第4室 掌(てのひら)から空間へ
ちょうど志功展をやってるので、その背景説明としての意味が強い部屋
棟方つながりで尼野和三(かずみ)、恩地孝四郎つながりで「月映」の田中恭吉とか?と一瞬期待したがそんなことはなかった
個人的には「棟方がヴェネチアとる一方で谷中が餓死した理由を考えないといけない」と後に批評家(誰だかは忘れた)に書かれた谷中安規の作品がみれてよかった
第5室 飛行機、戦争、美術
・戦争画あれこれ
満を持して登場する戦争画!!
GHQが押収した戦争画は153点あり、それは戦後(旧)都美術館の中央5室の「開かずの間」に放置されてたが、1951年にどっかになくなった
その後、米国内で「発見」され(管理ガバすぎ)1970年3月に、たぶん処分に困った米国から日本に無期限貸与された、、、ってのがここに飾られている戦争画の来歴になる
なんでいまでも一応アメリカ政府の所有ブツなわけだ
初公開は77年で、1/3ほどが展示された
相当もめて、展示したくない作家も多くて公開作品が減ったらしい
しかし、そもそもだぞ……
「従軍美術協会」だったのを作家の方から自発的に「陸軍美術協会」にランクアップして軍部におもねったくせに、負けると2か月で「新日本美術会」速攻つくってGHQを呼んで高度に手のひら返したのも作家たちなわけで「いまさら展示してくれるなとかそんな都合いい話通るか」って感じもする
「戦争画展示するなら横のキャプションにそいつが戦中に言ってたことも並べろ」ってコラムも(当時)あったがいいたいことはわかる(趣味悪い
航空機(96艦爆)の細かいところまで書かれている
これ、「飛行場を焼討」とかいうよくわからん状況の絵で、日本軍が爆撃にいって爆弾落としたんだけど、敵の航空機がダミーとかでぜんぜん効果なかったので頭に来た搭乗員が着陸して拳銃で飛行場荒らしまわった(焼討)という、本当に近代の戦争なのかが怪しいエピソードの絵
「野辺、今から体当たり」で知られる(知られてるか?)野辺重夫軍曹、高木伝蔵兵長散華の図
二式複座戦闘機「屠龍」は別に体当たりを意図した航空機ではなかったが、主兵装の37mmという大口径機関砲でもB29を撃墜するのは難しく、ふつうに体当たりを狙うことは多かったようだ
野辺軍曹は先頭(隊長機)にヘッドオンで突っ込み、それで後続機を巻き込んだって話もあるので、それだと絵のようにはならないのでは?とも思う
写真だとよくわからないが、非常にすがすがしい印象を与える絵で、会場でもひときわ目を引いた
当時これを見た人にはなおさら神々しくみえただろうと思う
なお、野辺機はこうして2機のB29を撃墜に成功したが、その破片が防空壕に落下し、そこに避難していた市民数名が死亡したという
焼夷弾を降らすのを阻止しても、結局は人が死ぬ
なんともいえない気持ちになるきれいな絵だ
産経の屠龍関連記事もあったがリンク切れてたので沖縄翼友会のまとめの方を張った 正直助かる
ちなみに中村研一は戦争美術展画集(昭和18年の)の表紙を飾ったりもしてて、非常に高く評価されてたようだ
そのわりに戦後まもなくの美術誌にふつうに作品のってて、この辺フジタとの差がよくわからんものがある
シンガポール攻略戦のときの光景(たぶん)
時期でいうと開戦劈頭、1942年できごとなのでしばらく後に完成した絵ということになる
要塞の形がしっかり描かれており、たぶん偵察写真をみないとこうは描けなかったと思うので、軍と画家の協力関係が窺える作品ではある
右下に一式陸攻、そして迎撃機はアメリカのF4Fワイルドキャットという42年2月のニューギニア沖海戦の絵
同年となる1942年の絵なので、けっこう最新の戦況を描いた絵だ
世にいう「ラバウル航空隊」の爆撃機で空母レキシントンを中核とした機動部隊を空襲したが、対空砲火と迎撃機によって日本の爆撃機がほぼ全滅したのに向こうは無傷、っていうひどい戦いである
手前の陸攻が燃えてるあたりで不吉さは演出できているが、一番のキモは雲の上ばっか描いているとこだろう
ふつう敵の船を爆撃しようってときに雲の上にいるバカはいない
雲の上で戦ってるとしたら、敵に待ち伏せで迎撃されてる状態である(実際レキシントンのレーダーで捕捉されていたらしい
ということで絵の状況的にこれは負けっぽいことがわかる
また、どうせ戦果もないのでそんなに洋上詳しく書きたくない(かけない)って事情もあったんだと思う
作家がどこまで情報もらってたのか微妙な所だが、この書き方をみると実際を知ってたんじゃないかと思う
海の上で爆発が起きてるが、艦影はないので船じゃないようだ
煙が上空から伸びているのをみると、被弾した日本機が墜落したか、特攻をしかけたかして落ちたものっぽい
・その他
ほかの5室で気になったものとしては村井正誠(まさのり)「URBAIN」
美術手帖によると「わが国の初期抽象絵画の記念作」らしいが、1937年の作品だということを考えると確かにすごい
ほぼ同時期に吉原治良も幾何学的抽象をやってるが、村井の絵は後に荒川修作がやるブループリントに通じる構想・設計図的な感じがする
村井は帰国後も画壇から認められず、いろいろあって「自由美術作家協会」っていう日本初の抽象を目的にした公募団体を立ち上げるわけだが、その直前に毎月銀座でグループ展やってて、気が付くと「2年半で30数回やってた」っていう気合の入り方がおかしい人
このグループ展が「既成画壇を象徴する上野」から「新天地銀座」へ移って開かれてたのが象徴的である
ま、そのかつての新天地はいま銀座TSUTAYAとかになってるが
あとは北脇昇の有名作もあったで!
北代省三のモビール・オブジェもあったがカルダーの影響を強く感じる作品だった(まあ当然だが・・・
カルダーより素朴な、ジュラルミンの素材感がある作品だった
第6~7室 東山魁夷とか
また急に雑になるが、6室は東山魁夷、7室は日和崎尊夫の木口木版画
東山魁夷は平山郁夫と並んでビッグネームだが、どっちもほぼまったく現代の美術の文脈との関連性がないってのはおどろく
50年代には洋画の人たち、たとえば岡鹿之助(何となく春陽会入った人)とかふつうに当時の(現代美術の)平面作品と一緒に語られてた印象あるが、57年のアンフォルメル以降は完全に画壇と現代美術が分離
お互い違う世界なんすっよね、みたいな感じになり、なので東山も平山も「現代」の視点からは語られない
・・・という日本美術の体制的問題を象徴する作家ではある
完全に余談だが最近芸術院の会長が交代したってニュースがあり、交代することになった現会長が、自分の中では歴史的人物になってたあの高階秀爾だったのでビビった
ふつうに60年代の批評で名前みる人が、まだ現役ってすごくね?
すごい細かい版画でこれが木口版画の特徴ということらしい
そもそも(木口版画に向くすげえ乾燥させた)「版木が入手困難なために作家が増えない」って日和崎本人が語っていた(「最近やってる人いるんですか?」って長谷川潔に聞いたらほとんどいないといわれた件。ちなみにこの技法の黄金期の作家はギュスターヴ・モローらしい)
これは結構示唆に富む話で、誰かが何かをつくるためには作るための素材が手に入ることが重要になる
逆にいうと美術の形式は、別にそれがすごいものでも、やるハードルが高いとそもそも廃れる、ということだ
(何となく画材があるから絵を描く、でいいのか問題
年代のせいもあるが、サイケデリック・アートっぽく感じられた
第8室 時間 配置 過程
「この部屋では、時間や音、そして事物の様々な関係性のなかに見出せる秩序をそれぞれのかたちで示す、1970年代前後の作品をご紹介します」
ということで自分的にはここが見たかった場所
表題の「時間」はこの時代それ系の作品多かったのと時間派ってグループが一瞬あったのが由来で、次の「配置」は関係項・出会いなどのタームが出てくる「もの派」の取り組みを、そして「過程」はプロセスアートや画廊で展示中になんかする系の作品(当時はハプニングで括られてた)を示してると思われる
ちなみに公式の説明の続きは以下
ここは色々と補足(突っ込みかもしんない)したい
河原温
初期から美術を「伝達の問題」と捉えてやった人で時間にこだわってたわけではない
岡本太郎の「鑑賞とは創造である」に同意した上で「芸術が伝達だとすれば、伝達とは一体何か?」「どうすれば(作家と鑑賞者の)相互交流が完全に行われるのか?」(美術手帖1959年 臨時増刊)の追求の結果で絵葉書とか電報にたどりついてる
あ、日付絵画はようわからんっす(正直榎倉康二
「事物の相互関係を」という書き方からわかる通り「もの派」の人
もの派ムーブメントがあったって前提
真正もの派、類としてのもの派、ものよる美術などのサブカテゴリ(千葉成夫の説)があるが、榎倉は作品の傾向から真正ではなくて周辺に位置する作家だとされている田中信太郎
吉村益信らのネオダダイズム・オルガナイザーズの仲間。
篠原有司男とかと比べると(比較対象が極端だが)ぜんぜんネオダダって感じしない宇佐美圭司
説明だと画家みたいに見えるが、オプ・アート(光のアート)流行期のNECのレーザーを使った作品が鮮烈な印象を残してる通り、どっちかっていうと平面よりいかにも現代アートって作家
東大の食堂にあった壁画が勝手に取り壊されてた件で話題になったが、あの当時軽率に作りまくった壁画はほぼ全滅してると思うんだけど東大食堂まで誰も騒いでなかったのが逆に気になる菅野聖子
福島出身で具体美術協会に参加した作家だってのを今回初めて知った
まじかよ・・・野中ユリ
画家の野中曜子の娘で、独学でやってて滝口修三に見いだされるっていう才能の持ち主50年代の美術手帖で「いいやん!」ってなる作品かなりの確率で野中曜子なので親子ですごい(※これは完全に勘違いなので訂正)
65年美手帖の作家紹介で登場するが、書き手は澁澤龍彦!
稲垣足穂の本の出版記念して個展やったりもしてるので、完全にそっち系(河出書房系)の人である
活躍年代的には河原が50年代中盤、60年代に田中、宇佐美、菅野(たぶんこの辺)、野中、60年代後半から榎倉・・・だと思う
また、このざっくりした説明が語ってない大きな背景として、「70年代はわりと日本の現代美術が真空」(※この項の追記参照)だった点も注目したい
どういうことかっていうと・・・
●50年代
・サロン・ド・メ展での現代西洋絵画に目覚める!
↓
・アンフォルメル旋風ですべて吹き飛び、具体美術協会が一躍センターに
●60年代
・ハイレッドセンター、ネオダダ、九州派が猛威を奮い、「反芸術」機運で読売アンデパンダン終了
↓
・関根伸夫「位相-大地」(68年)後に李禹煥がもの派の理論を発表
・もの派(ってグループは実はない)、美共闘REVOLUTION委員会が活躍
●70年代
・とくに動きもなく、なんとなく高松次郎が頑張る
・ミニマルアート、プライマルストラクチャー的作品爆増、そしてコンセプチュアル(概念芸術)へ
↓
・後半は平面への回帰が起こる
という感じで70年代は特に何事もなく、何事もなかったせいか、全般的にまたみんな「絵でも描くか…」みたいな状態になる
あんだけ反芸術で盛り上がってたのに、なんでこうなったんだ?という感じもあるが、中心で暴れてた人たちがほぼアメリカにいっちまったっていう事情はあるかもしんない
というわけで70年代は(ものvs概念芸術という戦いが実はあるが)割とよくわからん時代ではある
※「70年代が真空」についての追記
「70年代が真空」っぽく見えるのは「あくまで東京をみた」場合に限るので、傲慢な書き方だったと反省
実はほかの地方で何かが進んでおり、それが80年代につながっている可能性はある。たとえば関西をあげると、前衛美術に対する門戸が東京よりまだ広かったりする
・京都アンデパンダンが続いてる
・アートナウ(73アサヒ・アートナウを引き継いで兵庫県美)に前衛的な作品が継続して出品されてた
→75年 ジャパンKOBE ZEROの美術館3Fを貫く木
→77年 庄司達が赤い布で入口を封鎖
→78年 榎忠が運営事務所に向けた巨大な銃を展示
・あと、吉原治郎賞美術コンクールとかもある
他にも九州でも独自の動きがあったりするので、日本の状況としてはそこまで断定できないと思われる、ということを追記した
▼河原温
「浴室」シリーズが見れたので満足!
なんだけど、いきなり50年代の作品
よく覚えてないが、目録によると11室にある作品らしい
が、自分の記憶だと8室の河原作品とならんでたと思う(その方が鑑賞もしやすいので別に良い
実際みると想像より小さいが、その分「密室」感があがってる
画面が矩形ではないのも凸レンズ的な効果を出してるんじゃね?と思う
これが1953年(昭和28年)だってのがやばい
同時期に同じく先進的な仕事をしていた作家に靉嘔(Ay-o)もいるが、どっちの作品にも当時は特に批評すらなかったのがまたすごい
そのくせ後年の振り返りでは「河原の作品は衝撃だった」(by針生一郎)と書くのマジひどくね?
具体グループ黙殺の件といい、まじで東京の批評家はロクでもない
あいおー、55年「モダンアート」展出品作は以下
56年の「田園」がより衝撃度は大きい
日付シリーズの作品 こっちは70年代
当時、李禹煥(だったと思う)がこのシリーズを「絵画的すぎる(マチエールあるじゃん)」と批判したり擁護したり(※)してたが、実際みると確かに几帳面な手仕事って感じがしたのでその意見もわかる
※批判は「コンセプト的に手仕事排除したほうがいい」で、擁護はこれ絵画なの?に「めっちゃ描いてるからこれは絵画である!」と反論する場合
っていう批評に答えたわけじゃないだろうが、これは文字もスタンプになってる
メディアが手紙になったことでより「伝達」へのフォーカスも明確になって、ちゃんと作品を改善していってるんではないか
(手紙というメディア自体は確かボイスも60年代にやっていたので目新しいものではない
当時「手紙送れば作品になるのか」みたいに書いてた批評家もいたが、それは「河原くらい継続してればなるんちゃう?」と言えるかもしんない
▼宮脇愛子
最初の紹介には登場してないが、60年代を代表する作家のひとり
この時代(ざっくり60~70年代)、現代美術で活躍した女性作家としては桂ユキ、田中敦子、今中クミ子、中辻悦子、多田美波、田中田鶴子、宮脇愛子、沢井曜子、二村裕子などが思いつき、70年代末に宮本和子、木下佳通代、辰野登恵子らが滑り込む感じだ
(三島喜代美は80年代にカウントしている →※追記 と書いたんだが、これは三島の代表作となる陶器が表舞台に登場するタイミングで、活動自体は第3回現代美術の動向展(たしか63年、京都)に出た平面作品(そういえば見たわ・・・)など60年代からみられると訂正したい
ここにRe;スタート展にも出品されていた「エバナタウ」の森本紀久子も入れたいが話が横にそれるのでスルーしとく
それたついでに言っとくと、(具体の)今中クミ子(「実体」68年)や宮本和子の作品は塩田千春にかなり先行してるんじゃないかと思うんだけどその辺どうなん?
(宮本に言及している方のブログはあった
山中信夫とホンマタカシの関係性は言及されているが、同じくらいありそうな気がしている
関係ない話はやめると、その中でも宮脇愛子の活躍は光る
あと経歴もすごい。カリフォルニア大も出ててマン・レイとツーカー(死語)の日本人ってやばない?
最初は平面だったがいわゆるオプ・アートの流行時期にはその手の作品で優れた物を制作し、その後は立体(彫刻)もやっている
今回展示されていたのは渡欧後のだと思うが、日本の巻物をベースにした絵画で、ちなみにみたことなかった
▼木村秀樹
日本美術の中心は関西!
「関西の作家からすれば東京は地方」(by吉原治郎)なんだってばよ
木村もそれを象徴するような作家で、おもに関西で活動していた批評家の乾由明が発見して74年の国際版画展に出品したら、いきなり大賞とったっていう人
夜寝る前に月刊バレーボールを熟読するっていう謎の趣味を当時独白してた
(量があってなかなか読み応えがあるらしい
この作品がそうかはわからんけど、この時代の木村は「すりガラスにテープ張ると逆に透明になる」効果を利用した作品を作ってて、それを「逆コラージュ」と呼んでた(コラージュは何かを貼って像を生み出すのに対し、貼って消すみたいな効果があるからだと思う)
これも孔版の作品らしいが、写真の一部が明るく切り出されたような効果が生み出されてて面白い
写真とは違う、なんちゅうか、生々しすぎない画面も印象的だ
(写真より人間の記憶とか痕跡に近い気がする
ちなみに受賞作は鉛筆を持ってる手を描いた作品で、これはこれでシンプルかつ「もの」全盛期の時代にふさわしい、関係性に注目した作品でもあり、色んな点ですげえいいと思う
▼宇佐美圭司
正直あんまりいいと思ってない
たぶんこのころは「プリベンション」(機械とかそういう意味らしい)論に基づいた制作をしていた頃だと思う(ちょっと早いかも)が、結果的にできあがったものが、荒川修作が取り組んでた設計図とか図解的な絵画を、より「絵画っぽくした」作品って感じにに見える
(謎の英字が盛り込まれてたり、こういう回路図っぽい図像とか
荒川作品より繊細だともいえるが、それは別に誉めてない・・・
▼田中信太郎
撮ってねえ・・・
パイプを十字につないだもの
この時代のプライマリー・ストラクチャーとかミニマルアートとかコンセプチュアルアート(これはそこまでコンセプチュアルではないが)とかの雰囲気が伝わるはず
このパイプの断面が「まる・さんかく・しかく」になってるのがキモの作品なんだが、逆にこざかしくてだめなんでは?(もっと雑にでかい抽象化とか提示を目指してた形式なんじゃね?という)という気持ち
あと、この「まる・さんかく・しかく」は天地人的なJaponismなのではという感じもして、(日本を売りにしてアメリカで成功した)流政之を叩くのであればこういう使い方も批判されないとおかしいのではないか(別モチーフの可能性はもちろんある
▼菅野聖子
73年の作品
この時代は(幾何学的抽象→コンセプチュアルの流れで)一定の「システム」による制作が流行してて、たとえば(前に展示の話を記事化した)ルウィットなどがその代表でもある
システムに従って作成するってことは、何らかの「システムがある」という点で、ふつうの絵画よりコンセプチュアルといえるだろう(たぶん)
で、この作品がそんなシステムをもってたのかどうかはわかんないが、そういう意図をもった作品に見える
ちな館内にあるルウィット作品も丁寧なシステムの解説になってるので見る価値が高い
▼野中ユリ
という連作の展示だった
ちなみに「イリュミナシオン」は読んだことねえので内容わからん・・・
コラージュって怖くなりがち(完全にエルンストのせいだが)だが、野中作品はそうじゃないのがよいのと、そこまでシュールじゃないのに不思議な浮遊感がある
▼榎倉康二
もの派的に写真とったらこうなる、という感じの作品
70年代はとくに写真と現代美術が急接近した時代な印象ある
月とかを長時間露光でかっこよくとった山崎博(※)、ピンホールカメラの山中信夫などのストレートな写真作品から、写真に直に描いてトリック的な作品を作った木下佳通代、風景をペイントした木を風景の中に置いて写真にした小本章、水平線つまんだ中井恒大とか、面白い人だけでもとにかくいっぱいる(つまんないやつふくめたらやばいくらい多い
彦坂尚嘉も「アップライト・シー」っていう写真のインスタレーション作品を作っている
が、アメでは正面から絵画と殴り合って勝ちそうなルーカス・サマラズがとっくに爆誕済みなので、別に日本は進んでない(どっちかっていうと遅れ始めている
※ちなみに山崎博はモニカ・バウムガルトルとの関係が気になってる
▼野村仁
野村仁の登場は予想してなかったので非常にテンションがあがった
これちょっとキャプション取り損ねてて怪しいが、月の写真とってそれを音符に見立てて五線譜を重ねて五線譜上にならべて重ねて曲にした、って感じだったと思う(※月の位置は別に操作してないので訂正した)
当時、野村はいまでいうミクストメディアな実験的作品を発表してて、そのうちの代表的なやつになる
というわけで本体としては「曲」になるわけだが、それもちゃんと会場のヘッドホンで聴けた!!
前の人ががっつり聴いてて「いや別に興味ないっすよ」みたいな顔して牛腸の写真みて時間つぶしてたんだけどマジでけっこう待った
で、聴いた感想だが「意外とふつうにいい曲」だったことを報告しとく
▼木村光佑
70年代の展評で何度か名前を見かけたことがあったが、作品はちょっとよくおぼえていない作家だった
ちゃんと作品意図とか読めてないうえでのぱっと見の感想だが、カール・アンドレ的な彫刻に、ロバート・スミッソンの地図を足して、その上にプライマリ・ストラクチュラルで天地人的な「まる・さんかく・しかく」を載せた、みたいな作品に見えてしまった
第9~10室 牛腸とか土牛とか
よく見たら牛ばっか
・9室 撮り鉄のトリミング禁止の起源
牛腸茂雄の写真の展示してあった ↓こんなの
で、特に作品性とは関係ないんだけど、この作品をよく見ると写真に「黒い枠」があるのが見える
これは60年代後半に登場したコンテンポラリー・フォトグラフィーに由来してて、「カメラの機能を最も単純素朴な形で使おうとする」(by大辻清司)意志の表れであり、なのでトリミングせず黒い枠があるままにプリントするようになった、ということらしい
リチャード・アヴェドンの「ポートレート」シリーズにもこの枠がある
こっから何を思ったかって話なんだが、ちょっと前に撮り鉄界隈ではなぜか「写真のトリミングが禁止」に(界隈のルール上)なってて、そのために被写体を中心にとらえる必要があり面倒になってるみたいな話があったが、そのルールの出どころはこれなんじゃね?
団塊が青春をエンジョイしたのは70年代で、そのころにはやっていた芸術写真のルールが「トリミングしない」だったと
つまりそのころ(芸術的な)写真をかじった層には、それはそうあるべきというルールになった可能性がある
その世代に写真を教わった人らに、もはや目的を失ったそのルールだけが伝承された結果が「トリミングはズル!」の起源ではないか
ということを牛腸作品を見ていて思った
・10室 土牛とか
10室は奥村土牛とかが飾ってあった
第11~12室 想像/創造する「からだ」~エゴとエコ
という部屋の名前は展覧会のメインビジュアルにもなってる遠藤麻衣×百瀬文の作品から来てるはずだが、あんまり興味がなかったためスルー
他に気になったものだけピックアップしたい
▼三木富雄
うおおおおおお! 三木富雄の耳!!!!
まあ、まえに京都で63年読売アンデパンダンに出た「最初の耳」(作品名は「あなたの保険」だったはず)見てるんで、そんな興奮することでもない
ちなみにこの耳はデロデロがついてキモくなってるバージョンであり、最初の耳にはこれはついてない
デロデロがついたおかげで、こうやって立てて展示することが容易になったので、そのためなんじゃないかという気もする
(京都では床に転がしてあった
ちなみにこの作品初出の63年の読売アンデパンダン展は美術手帖では特に記事になってない(展評もない
が、結果的には誌面に載った
なんでか、っていうと来日してたティンゲリーのインタビューに、同展を見た感想という形で出てくるからだ
逆にいうと、インタビューがなかったら、美術手帖の読者はしばらく三木の耳の存在に気づかんかった可能性ある
というか、海外の有名作家が推さなくても批評家は三木の耳を評価できたのか???という疑問が・・・(さすがにできたと信じたい、時間は掛かったかもしんないが
ちなティンゲリーは動く彫刻(当時はメタ・マティックと呼んでた)で有名な人で、東京・南画廊で個展するために来日していた
ジャンクアートよりの作品なため、ジャンクにはジャンクってことでネオダダ(もう抜けてたが)のギューちゃんこと篠原有司男らがアシスタントとして駆り出されておもろいことになる
この三木の耳は翌年に来日したジャスパー・ジョーンズにも「美術館の壁で見たい」と言われてるのでめっちゃ評価されていたっぽい
(J・Jは小島信明の個展も見に行ってて人形に感心している
関係ないがギューちゃんはマチュー、ラウシェンバーグ、ティンゲリー、ジャスパー・ジョーンズと来日した大物には必ず絡んで、挙句にデュシャンの口添えで奨学金もらうのですごいヤツだ
なお、ティンゲリーが同記事の中で触れていた63年アンパン作品は以下
三木富雄「あなたの保険」
中西夏之「クリップは攪拌行動を主張する」
高松次郎「テーブルの引出しに関する反実在性について」
関根美夫「作品」(そろばん柄のやつ)
立石紘一「共同社会」(後のタイガー立石)
磯辺行久「Work '62」
豊島壮六「IとYouのトラブル」
清水晃「Recreation」
さすがにすげえいいとこ見てる
▼ロバート・スミッソン
主に動画作品なので写真はなし
いわわるアースワーク、ランドアート
▼その他
国内的に興味あるところとしては建畠覚造の作品があったが、かなり後年の作品だった
んで、あとは外なんだけど
多田美波の彫刻もある
他の彫刻よりだいぶ優遇された位置にあるあたり、多田の重要性が伝わってくる
※※※一応こっから別の展示※※※
「女性と抽象」展
なんかほぼコレクション展の延長なんだけど、女性作家をまとめて集めて整理した、というパートらしきものをやっていた
チケットは共通なので完全に1コーナー
しかし重要な作家が多かったため、こっちはこっちで楽しめる
ステートメントは以下
1章「女流画家協会」
あんま章立ていみないんだけど、とりあえずつけてはおく
▼三岸節子
抽象? いうほど抽象か・・・? みたいな作品だが、日本では単に様式を意味する(「やさしい抽象」とか・・・)こともあるのでまあいい
三岸節子は「女流画家協会」の発起人で、重要な人物だが、そもそもこの会は特に抽象を志向したものではないから、なんかちょっと展覧会名とそぐわない感じになっちゃってるのは残念である
※抽象を志向した団体は村井正誠のところで書いた「自由美術作家協会」が最初
▼田中田鶴子
このくらいの時代から誌面にはよく登場する田中田鶴子!
実際に作品をみた記憶なかったので見れてよかった
この作品は56年、アンフォルメル上陸は57年なので、まだアレにやられてない時期の純粋抽象に近い作品、って言っていいと思う(が、キャプションメモしてないのであってるかわからん
▼芥川沙織
たまーに名前を見るがそんなに出てこない作家、という印象の芥川沙織
今回その理由がわかった
「この翌年に42歳で早逝」してしまったため、あんまり名前が出てこなかったのだ
64年というと、世間では(さっきも書いたが)反芸術の嵐で美術館にゴミの山を送り届けて出品しようとしてたような時代なので、そんなときによくブレずにこういう絵を追求していたなと感心する
▼桂ユキ子
50年代からバリバリ活躍してる桂ユキ子!!!
あの時代の美術雑誌、「いい絵じゃん」とか思うやつはかなりの確率で桂ユキ子っていう法則がある
っていう解説があるが、この辺について桂自身が語っている記事が美術手帖1979年7月号にあるのでそこから補強すると・・・
・桂はそもそも「コラージュ」っていう手法を知らずに、自然と身の回りのものを貼り付ける手法をやっていた
・昭和6年に仏から帰国した海老原喜之助がそれを見て「日本ではまだ知られていないけど、これはコラージュの手法で、絵もおもしろい」っていって個展をすすめるので銀座画廊でやった
・あんまり客はこなかったが、評論家の外山卯三郎が「誰のまねでもなく、自分の生活感の絵画化に成功しており、それは日本のモダニストにとって決定的な問題である」と書いてくれた
・その(2Fの)画廊から整然とならぶ瓦屋根を見て戦慄した記憶があり、工場のまわりで見つけたコルクくずを夢中で板に張り付けたのがコルク作品の原点
・戦争がはじまってコルクが手に入らなくなったが、戦後うまくいえないが、コルクで作った作品が浮き上がって見えた。そして40年後もまた新作をコルクで作っている
「これは断固そんな低徊趣味ではなく、戦後、多くのひとびとによる価値ある、新しいこころみが、たんに私を素通りしたのではないことの証なのだといって、自分に対してすごんだりしている」
すげえいいこと言ってる!
「私を素通りしたのではないことの証」というのは、あれこれ流行が右往左往した日本現代美術界を生きてきた人のもっとも誠実な言葉といえるかもしんない
このコルク作品前に立つときはこの言葉をかみしめると、戦後美術会のどたばたがにじんできて味わい深いと思う
2章「増殖する円」
なんかいきなりモチーフというか記号の話になるが、この展示はこの辺ふわっとしてるのでまあ気にしない
▼福島秀子
本展覧会のカバーイメージになっている絵
自分としてはこのあとの2作の方が好きだったりする
かなりはっきりしたモチーフのあった「凝視」と比べると、同時期の作品だがこの辺は純粋な抽象になっている
技法的にもまさに抽象絵画という感じで、仮にアンフォルメルの襲来がなかったらこれはこれで独自の抽象として発展していったような気もするので大変もったいない・・・
▼田中敦子
これはご存じの通り電気服の回路から絵画へと展開していった作品で、解説にもそう書いてある
なので、これを「円」モチーフとして草間彌生とかの横に並べるのはさすがに乱暴なんじゃね?
3章「抑制と解放」
というわけで次の章へ突入する
ちなみに各章の間のつながりはまったくわからない
▼木下佳通代
70年代によく見かける木下佳通代!
この円モチーフの作品は、手を映した写真にフェルトペンで円を描くみたいな作品もあり、この時代に一貫して作家が追求しているものだ
で、ここまで書いてて思うのは、ならこれを2章の円モチーフの方に入れるべきなんじゃね?ってこと
増殖してないからダメなんだろうが、他作品に増殖してるんだからとか、なんとでもいえてしまう気がする・・・
また、解説はコンセプチュアル・アートを下敷きにしてる(具体的にはコスースの椅子(65年)とか、ティム・ヘッドのナイフ(75年)のやつとか
「実物と概念の関係」という見方してるのでそうだと思う
しかしこの作家は「手を映した写真にフェルトペンで円を描く」とか、「印画紙の上にアクリル絵具で描く」とかであって、実体はない
なので様式的にはコンセプチュアル・アートというより、「トリックス・アンド・ビジョンズ」展に代表されるトリックアート的な側面が強い作品では?って気もする
そもそも70年代の高松次郎をどう解釈するか、みたいな話になるが・・・
とかなんとか言いつつも、この作家の実際の作品をちゃんと見れたのは大変よかった
▼沢居曜子
めっちゃ70年代に活躍してる印象ある
この中の面子だと、一番雑誌に名前出る回数多いんじゃないか
(個展いっぱいやってたと思う
実は表面ではなく、(切り込みという)構造によって絵画が制御されてるっていう面白い作品
当時はやってたシステム絵画みたいなのとは違う思想で秩序を成立させようとしてるのがよい
「キャンバスに傷」と聞いて誰もが想像するフォンタナと空間主義との関係はどうなん?ってのを解説には掘り下げてほしかったが、これは自分で調べろってことなんだろう
以上!!!!!
ぜんたいのかんそうなど
コレクション展、女性と抽象それぞれについて
▼コレクション展のかんそう
よかった! まじで!
ただかなり人を選ぶかもしんないので、紹介見て楽しめそうな人はいったらいいと思う、くらい
ふつうは企画展のついででいいと思う
あと、悪かったところとしては(これは近美あるあるだが)導線がわかりにくすぎる
構造上、小さい部屋に分かれすぎるので、見落としがないかかなり気になった
ちなみに自分は丸ごと2部屋くらい見逃してて、もう1回見に行くことになったわけだが・・・・
(もらった目録見てて気づいた
▼女性と抽象展のかんそう
意図としてはわからんではないし、収蔵作品の中でやらないといけなくてこうなったのだと思うが、ちょっと雑すぎると思った
箇条書きで書いとくので頼んますよ!
「抽象」ってテーマが謎
→日本画とかその他現代絵画を除外するために入れた感じだ
→抽象って括りでなく、「現代美術」くらいでよかったのでは?1~3章の区分が謎
→これもこじつけ感強かった
→ふつうに時系列にならべ、それぞれの作家の文脈についてはキャプション厚めで説明すればよかったんじゃないかと思う思想に内容が追い付いてない
→「抑圧と解放」とか括り方の意味ぜんぜんわからん・・・
→標語だけ掲げてる感じ
→女性美術家の抑圧をテーマにするのであれば「がんばってたけど取り上げられ方がしょぼかった」という内容にすりゃええやん!と思うが、東京の美術館はこれができない事情がある(と思う)ぬぐい切れない東京中心主義
→まじでこれ
→女性と抽象ってテーマなら、具体美術協会がかなり先行してる
→田中敦子は取り上げられてたが、ほかに今中クニ子、白髪富士子、山崎つる子などがバリバリやってる
→なのでなんかもうちょっといい切り取り方なかったのかなと思う
「じゃあお前ならどうすんだよ」っていうところだが、「近美コレクションで見る現代女性作家の歩み」みたいな味付けなしのテーマにするのがよかったんじゃないかと思う
で、時系列にやってくんだけど、途中で「美術批評と女性」コーナーを設けて針生一郎とか東野芳明とかの歴史的にひどい発言を振り返る(針生もけっこう言ってた気がする・・・)
今回も東野のひどいやつは取り上げてたが、そもそも美術手帖で連載されてたその「現代美術のトップレディ」という企画自体がいまの目線でみると差別感高いのでそこから取り上げ、また当時の有名海外女性作家がのきなみ美人であることにもどっかで触れたい
若いころのフランケンサーラーとか美人すぎてびびった
あとそもそもチハーコヴァーを除くとしばらく(70年代くらいまで?)女性批評家がいなかった気がするので、その辺も掘り下げたい
とかまあ、いろいろあるが、総じていい展示だったんではないか(まる)
時間ある人、500円で見れるのでぜひいってみてくれよな!
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