時刻表に乗る~西九州編~ vol.1
1. 旅の始まり
令和3年(2021年)9月の平日、私は日の出前の鹿児島中央駅にいた。前日、商用で鹿児島までやってきたのだが、東京には明日までに戻っていれば問題ないため、一日余裕ができたのである。
この日が来ることがわかってから、かねてから計画していた時刻表旅の一つを実施しようと、密かに考えをめぐらせていたのである。ちょうど、長崎にいる友人に会うことになっているので一石二鳥である。
私の愛読書、ーといえるのだろうかー、の一つに、鉄道の時刻表があった。時刻表は鉄道の発着時刻が記載されているだけの月刊誌である。北は北海道から南は九州まで鉄道のある土地の鉄道時刻が全て掲載されており、本屋の片隅に積まれ、購入者がいるのかどうか怪しいくらい、常に高く積まれているものである。
それを日夜紐解いては、まだ見ぬ鉄路に胸を躍らせ、実行には至らない鉄道旅の計画を何案も立案し、そのうちのどれかを実施できる日がくるのを常に心待ちにしていた。
そして、久しぶりにその機会が訪れたのである。
私の楽しみは、乗車している列車が時刻表通りに運行されているのか確認するのはもちろん、対向列車や追い越し列車が時刻表で計算した通りにやってくるのか、その目で確かめることにある。
そして、実際想定していた通りに列車たちが運行されているのを確認し、一人満足するのである。それは、あたかも料理本のレシピ通りに料理を作って満足することと似ているかもしれない。もちろんそれは、日本の鉄道が世界に類を見ないほど正確運行されているから可能になる芸当なのであって、そのあたりは私も十分に敬意を払っている。
同時に、地図を確かめながら、イメージ通りの地形なのか、地図で見るのとは異なったイメージの地形なのかも観察したりする。
今回は、途中航路も挟んで島原半島を経由するという少し毛色の変わったルートで向かいたいと思っている。
九州という土地は火の国という言葉で代表される通り、火山でできた島である。
鹿児島には桜島、開聞岳があり、熊本には阿蘇山がある。
それらは活火山であり、常にそこで暮らす人々の脅威となっている。
中でも、自然のエネルギーの凄まじさを感じさせたのは、平成28年(2016年)の熊本地震が記憶に新しい。熊本城が崩れている映像は衝撃的であった。
他にも、私の心には、少年時代に起きた雲仙・普賢岳の噴火は、大きな衝撃として刻まれていた。テレビが中継する生々しい土石流と噴煙の映像は、地球は生きているんだと実感させられるのに十分な迫力であった。
そして、人のエネルギーも高い島である。
西南戦争では、最後の武士たちのエネルギーの塊が、明治新政府を脅かし、西郷隆盛という英雄がいなければ、どのような結果になっていたかわからないほどであった。
また、島原の乱では、信仰という旗印のもとに、多くの人々が天草四郎のもとに集い、できて間もない江戸幕府を脅かした。
そんな理由もあって、自然と人のエネルギーを強く感じるために、鹿児島から熊本を経由し、島原半島を通って長崎に向かうことにしたのである。
鹿児島は、島津家薩摩藩73万石の本拠地である。薩摩島津家の歴史は古く、鎌倉時代からこの地を支配し続け、戦国の世も乗り切り、江戸幕府末まで家を保った名家である。
鹿児島城、ー別名鶴丸城ーは、慶長9年(1604年)、当時の島津家18代当主島津家久によって築城された。ふもとの居館部分は天守閣を持たない屋形造りで、戦時は裏山の城山(上山城)を陣所とする、一体のものとして築城された。
しかし、元和元年(1615年)の一国一城令により、上山城は廃止され、麓の居館だけになった。
城山は、西南戦争後に西郷隆盛が最後まで立て籠もり、自刃した地としても有名である。
薩摩武士団のエネルギーは凄まじく、一時は九州を席巻するところまで勢力を伸ばした。しかし、新政府軍に追い詰められ、最期は城山で自刃したのである。
西郷隆盛の自刃は、薩摩武士団のエネルギーを抑え込むのに十分だったようで、日本国内で最後の内戦となった。
●鹿児島中央発5時55分の普通列車川内行(2420M)は白地に青いラインの入った塗装の415系列車で、鹿児島中央駅の3番線に停車していた。
部活の朝練でもあるのか、この早い時間にも関わらず、地元の高校生がかなり乗車している。
車両に足を踏み入れると、高校生たちは普段見かけない乗客に一瞥をくれ、すぐに読んでいた参考書に目を移す。少し気まずさも感じながら、私も空いている席に腰を下ろした。
あとから乗り込んでくる高校生が、いつもの自分の席が埋まっているとでも思ったのか、怪訝なまなざしをこちらに向けてから、近くの席に座った。
それにしても、鹿児島の言葉は聞こえてきても全くわからない。こちらが、話かけると標準語を話してくれるが、今、高校生たちが友達同士で話をしている内容はさっぱりだ。
定刻5時55分、車掌の笛の音と共に、ドアが勢いよく閉まり、ガタンと連結器の揺れを感じさせながら列車は走り出した。
列車は鹿児島本線の各駅に止まりながら、こまめに高校生を拾っていく。
徐々に日が昇りはじめ、空がオレンジ色に染まっていく。
●6時15分、伊集院に停車。ここはかつて、鹿児島交通枕崎線という私鉄が分岐し、薩摩半島の先端の枕崎までを結んでいたが、昭和59年(1984年)に廃止されてしまった。
停車している駅から見た限りでは、鹿児島交通線の残骸は見つけることはできなかった。
次の東市来(ひがしいちき)からは、鹿児島本線は一旦単線になる。列車の本数が少ない地方では、複線部分と単線部分を交互に組み込んだほうが、管理面で効率がよいようである。東市来までは走りながら対向列車とすれ違っていたのが、駅で待ち合わせ交換に変わるので、少し面食らう。
神村学園前(かみむらがくえんまえ)に停車すると、大勢の高校生が下車していった。まさに学園前で、駅の目と鼻の先に校舎が見える。
地図で見るよりも山がちな地形が続き、何箇所もトンネルを通過する。
この山々と、難解な言葉が江戸時代以前は他国との交流を阻むものになっていたのだな、と妙に納得する。
●隈之城(くまのじょう)で対向の鹿児島行(2427M)と待ち合わせを行う。
電車が止まって対向列車を待つ時間、車内は時の流れが止まったようになる。電車のエンジン音だけが響き渡り、けだるい空気感が流れる。
●定刻6時51分、終点の川内(せんだい)に到着する。鹿児島本線はここまでで、ここから先は九州新幹線の完成で第三セクター化された、肥薩おれんじ鉄道の路線となる。
次の列車は、7時5分発八代行(6122D)で、肥薩おれんじ鉄道全線を走破する列車である。
肥薩おれんじ鉄道は旧鹿児島本線であり、電化区間であるが、肥薩おれんじ鉄道は全てディーゼル車での運行となっている。その方が、電化設備を使用しないためメンテナンス費用が抑えられるそうである。
川内からは、かつて、国鉄宮之城線という路線が鹿児島の内陸部である薩摩大口までを結んでいたが、昭和62年(1987年)に廃止されてしまった。
国鉄宮之城線は、薩摩永野にあった、永野金山のために大正12年(1937年)に全通した路線であり、金山の金産出量も一時は佐渡金山を上回るほどの産出量があったそうであるが、昭和28年(1953年)の金山閉山により、赤字ローカル線に転落してしまった。
八代行列車も、先客の高校生がかなりの数乗車していた。発車まで少し時間があるので、座席を確保してから、これから約2時間半の行程を共にする車両を眺める。周囲もだいぶ明るくなってきたので、車両がよく見える。
白地にオレンジと緑、青の三色のラインが入ったディーゼル列車の先頭には果物のオレンジをデザインしたかわいらしいロゴマークがあしらわれている。
地図を眺める限り、これから走るルートは線路が海岸線ギリギリを走っているように見え、海の景色を存分に楽しめそうな気配がしている。どのような風景を見せてくれるのか期待に胸を膨らませながら、発車の時を待つことにした。
次回につづく
[参考文献]
・JTB小さな時刻表 2021年秋号 JTBパブリッシング
・全国鉄道地図帳 昭文社
・尚古集成館 島津氏800年の収蔵 田村省三著 尚古集成館
〔表記の分け方について〕
※太字表記した部分については時刻表や地図帳などの事実に基づいた内容である。
※時刻表の羅列だけでは寂しいのでフィクションで私の行動や周囲の乗客の様子や風景を書き加えた。その部分は細字表記となっている。また、歴史的背景の描写や街の紹介などは事実に基づく内容である。その部分は時刻表には無関係のため、細字表記となっている。
【今回のマップ】