松ヶ谷鉄道

時刻表に関連する話をしたり、 時刻表と地図帳片手に時刻表に乗る旅に出たり、ざっくばらん…

松ヶ谷鉄道

時刻表に関連する話をしたり、 時刻表と地図帳片手に時刻表に乗る旅に出たり、ざっくばらんな内容となっています。実際に旅も行きたいな。今のところ週2.3回の更新を目標にやってます。Xもよろしくお願いします。少しでも気になる内容でしたら、フォロー、スキよろしくお願いします!

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時刻表に乗る vol.1

~旅のはじめに~  現代社会において多くの人々が“時間”に追われ日々の生活を送っている。日常生活の中で”タイムスケジュール”を組み、その予定通りに概ねの日常イベントをこなしている。  その人々が移動手段として日常的に利用する公共交通機関であるバスや鉄道にもタイムスケジュールがあり、そのタイムスケジュールのことは”ダイヤ”と呼ばれ、日本全国のJR線や私鉄路線、代表的なバス路線等のダイヤが記述されているものが”時刻表”と呼ばれる冊子である。  現代社会においてはスマートフォ

    • 時刻表に乗る番外編 路線あれこれ #07   根室本線①

      根室本線 道東の中心とを結ぶ重要路線としての整備  明治33年(1900年)北海道官設鉄道十勝線として、下富良野(現富良野)ー鹿越【①】36.85㎞が開業したところから建設がスタートしました。釧路側は明治34年(1901年)北海道官設鉄道釧路線として、釧路ー白糠【②】27.84㎞が開業。富良野側、釧路側から順次路線を伸ばし、明治38年(1905年)には北海道官設鉄道から、官設鉄道へ移管されました。明治40年(1907年)には旭川ー下富良野(現富良野)ー釧路309.15㎞が

      • 時刻表に乗る番外編 路線あれこれ #06   釧網本線

        釧網本線  釧網本線の網走側は池田との間を結ぶ網走本線として、大正13年(1924年)網走ー北浜11.59㎞が開業したことから、建設がスタートしました。釧路側は昭和2年(1927年)、釧路ー標茶【①】48.12㎞が釧網線として開業しました。昭和4年(1929年)に網走側の斜里(現知床斜里)ー札鶴(現札弦)(さっつる)【②】19.63㎞が開業し、池田ー札鶴の網走本線が全通、釧路側からの工事も昭和6年(1931年)に札鶴に達し、釧網線も全通しました。その際、網走ー札鶴を釧網線に

        • 時刻表に乗る番外編 路線あれこれ #05   石北本線

          石北本線 石北本線  石北本線は、大正1年(1912年)に野付牛(現北見)ー(網走(現))ー網走(旧)(のちの浜網走)53.75㎞が網走線(すぐに網走本線に改称)として開通したところから建設がスタートしました【①】。同時に、野付牛の反対方向には留辺蘂(るべしべ)まで22.85㎞が湧別軽便線として開業しました【②】。大正5年(1916年)には湧別軽便線は遠軽まで(37.5㎞)到達しますが、常紋トンネル【③】の工事では、タコ部屋労働者が人柱にされるなど、悲惨な工事を経ての到達

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        時刻表に乗る vol.1

          時刻表に乗る番外編 路線あれこれ #04   名寄本線

          名寄本線 《栄光の時代》  名寄本線は湧別軽便線として遠軽ー社名淵(のちの開盛(かいせい))【①】4.51㎞が大正4年(1915年)に開業したところからスタートしました。翌大正5年(1916年)社名淵ー中湧別ー下湧別(のちの湧別)【②】16.58㎞が開業し、同時に狭軌への改軌を行いました。その後は名寄側からおよび中湧別側から徐々に路線を伸ばし大正10年(1921年)全線が開業しました。開業当時は名寄線と名乗っていましたが、大正12年(1923年)に名寄本線に名称変更されて

          時刻表に乗る番外編 路線あれこれ #04   名寄本線

          時刻表に乗る番外編 路線あれこれ #03   宗谷本線③

          美幸線・興浜北線 《壮大な計画もあった悲劇の路線》  路線の全てが美深(びぶか)町内にあった美幸線(びこうせん)【①】は、昭和50年代日本一の赤字路線として話題になり、当時の町長がそれを逆手に取って「日本一の赤字路線にの乗って行こう美深町」のスローガンのもと、東京や大阪で大いにPRを行ったことが有名になりました。  美深線は元々、オホーツク海沿岸の北見枝幸(きたみえさし)を目指し建設が計画されましたが、その大部分が計画凍結となり、名前にその爪痕を残したまま(美深の"美"と

          時刻表に乗る番外編 路線あれこれ #03   宗谷本線③

          時刻表に乗る番外編 路線あれこれ #02   宗谷本線②

          《昭和戦前時代》  昭和時代に入ると、函館ー稚内路線は樺太経営の為にますます重要度を増し、北海道の中心である札幌を経由しない列車も現れました。これは、北海道内で新規路線が続々と開業してきた関係(札幌を経由しないほうが距離が短いルートができた)もありますが、今では考えられないことです。  また、スピードアップも図るため、昭和5年(1930年)には全区間が急行に格上げされ、函館から稚内は18時間2分に短縮されました。  大正時代の最初の急行が22時間59分かかっていたわけですか

          時刻表に乗る番外編 路線あれこれ #02   宗谷本線②

          時刻表に乗る番外編 路線あれこれ #01   宗谷本線①

          はじめに  このシリーズは、全国各地のJR・国鉄・第三セクター路線を取り上げ、見所や歴史を切り取ってみたいと思っています。取り上げ方は、〇〇本線とそれに連なる支線という形で取り上げます。今はもう廃線となってしまった路線も取り上げ、往時をしのびたいと思っています。  昨今、鉄道路線の赤字問題についてのニュース記事をよく見かけます。  その昔、右肩上がりの時代には、新しい路線が数多く計画され、その後右肩下がりの時代に入ってしまい、多くの計画がとん挫しました。  計画通りに建設さ

          時刻表に乗る番外編 路線あれこれ #01   宗谷本線①

          山手線ができるまで vol.1

          1.黎明期 《当初は軍用、貨物用の迂回ルートだった》  山手線の建設は、鉄道黎明期の明治18年(1885年)には開始されました。当初の大きな目的は、東京駅を避けて、東海道本線と東北本線を直接結ぶ軍用、貨物路線の建設にあったと思われます。旅客営業は二の次の扱いであったのでしょう。  路線名称については、〇〇本線が最上位にあり、〇〇本線のグループとしてそこから枝分かれしている支線〇〇線を〇〇本線グループとして分類しています。山手線は建設当時は東北本線の支線という位置づけだっ

          山手線ができるまで vol.1

          時刻表に乗る~信越本線の今をゆく~vol.7

          7.信越本線の現状  長岡藩というのは、少し調べてみるとなかなか興味深い藩である。その興りは、高田藩松平忠輝の失脚から、外様であった堀氏が長岡藩を立藩し、長岡の地に入城している。堀氏のあとは、譜代の牧野氏がこれに変わり、以後250年間にわたり、長岡藩を治めることとなる。途中加増されてたりしているが、加増された地が栃尾という土地で、上杉謙信旗揚げの地として有名な土地であり、民衆の団結力が強く、なかなか長岡藩に従わず、何度か一揆をおこしたりしている。また、信濃川の低湿地帯に藩域

          時刻表に乗る~信越本線の今をゆく~vol.7

          時刻表に乗る~信越本線の今をゆく~vol.6

          6.中越地方をゆく  直江津の地名の由来については諸説あるようで、はっきりとしたものはないようだが、越中富山方面からやってきて、直江津辺りに来ると急に海岸線が真っ直ぐな江になり、そこにできた港(津)というところから、「直江津」という地名が付いたという説もあるようである。  直江津からは再び信越本線の旅となる。ここから先の信越本線は今までの信越本線とは性格が異なり、北日本縦断線の一翼を担う大幹線である。北海道方面から関西方面へ向かう貨物列車などは全てこのルートを経由する。北

          時刻表に乗る~信越本線の今をゆく~vol.6

          時刻表に乗る~信越本線の今をゆく~vol.5

          5.海を目指して  長野を出てしばらくは住宅街を進む。  田園風景も混ざってくると、飯山線との分岐駅、豊野に到着する。   豊野は平安時代の『和名類聚抄』には水内郡「大田郷」として見え、長承3年(1134年)に、関白藤原忠実の娘・高陽院泰子が鳥羽上皇に入内した際に、摂関家に寄進され荘園として成立した。その後様々な変遷を経て現在では長野市豊野地区となっている。俳人・小林一茶の出身地でもある。  豊野からは、一気に山岳地帯に入る。山を抜けると牟礼。再び山の中に分け入る。  さら

          時刻表に乗る~信越本線の今をゆく~vol.5

          時刻表に乗る~信越本線の今をゆく~vol.4

          4.戦国の香りを追って  列車は、日本一の千曲川に沿ってのんびりと走る。夏の日差しを浴びて川面がきらきらと輝いている。  千曲川はいくつもの支流を受け止めながら徐々にその流れを太くしていく。支流のひとつ、神川を渡り、信濃国分寺を過ぎると上田である。  長野県、古くは信濃国は、山がちな地形で、小規模な盆地が点在しており、戦国時代には小豪族が乱立し、統一勢力は信濃の中からは現れず、外部からの大きな侵略者に従うことが多かった。  上田を拠点としていた、真田一族もそのひとつで、真

          時刻表に乗る~信越本線の今をゆく~vol.4

          地方鉄道活性化への提案 vol.1

          はじめに  今回のシリーズは今までのものとは少し毛色の変わったものです。  景気は回復してきていると声高に叫ぶ人たち、本当にそう感じているのでしょうか。確かに、大都市部はそうかもしれません。  東京一極集中の現状がある以上致し方ない部分も多少はあるかもしれません。  東京以外の地方は元気でしょうか。私には、そのようには見えない部分が多く感じます。人が減り、シャッター通りの商店街。そのような状況を少し東京から離れるだけでよく見かけます。 2024年問題、トラックドライバー

          地方鉄道活性化への提案 vol.1

          時刻表に乗る~信越本線の今をゆく~vol.3

          3.軽井沢の高原をゆく  バス乗り場は駅前にあった。JR関東バスが運行しているバスだ。  ほかにも、「峠の釜めし」で有名な「おぎのや」など、見所満載である。  バスのルートは国道18号線に沿っているようだ。  出発するとすぐに「碓氷峠鉄道文化むら」が見える。HPを見てみると、EF63形機関車の体験運転や、碓氷峠の歴史を知ることのできる展示など、かなり楽しめそうな内容である。  しばらく住宅地と耕作地が入り混じったエリアを走行する。このあたりが、旧中山道の坂本宿の宿場だった

          時刻表に乗る~信越本線の今をゆく~vol.3

          時刻表に乗る~信越本線の今をゆく~vol.2

          2.碓氷峠へのみち  高崎市は、県庁所在地の前橋市よりも多くの人口を抱える群馬県第一の都市である。  高崎の起源は、豊臣秀吉の命で関東に転封された徳川家康の四天王、井伊直政が天正17年(1589年)高崎(もともとは和田という地名)の地に入り、高崎城を築城し高崎に改名したことに始まるとされている。  古くは、中山道と三国街道の分岐点、交通の要衝として、そして、高崎城城下町として栄えた。現在も、上越新幹線と北陸新幹線の分岐点であり、関越自動車道と上信越自動車道の分岐点という、交

          時刻表に乗る~信越本線の今をゆく~vol.2