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時刻表に乗る~信越本線の今をゆく~vol.6

6.中越地方をゆく

 直江津の地名の由来については諸説あるようで、はっきりとしたものはないようだが、越中富山方面からやってきて、直江津辺りに来ると急に海岸線が真っ直ぐな江になり、そこにできた港(津)というところから、「直江津」という地名が付いたという説もあるようである。

確かに直江津辺りから海岸線が真っ直ぐになっている
[使用マップ]国土地理院地図GSI Maps

 直江津からは再び信越本線の旅となる。ここから先の信越本線は今までの信越本線とは性格が異なり、北日本縦断線の一翼を担う大幹線である。北海道方面から関西方面へ向かう貨物列車などは全てこのルートを経由する。北前船の陸上版といったところであろうか。

北日本縦断線を走る貨物列車
[使用写真]フリー素材 https://www.photo-ac.com/
撮影者:なつめ球さん

 直江津発14時20分の列車は定刻通り発車した。直江津の次の黒井は、頸城鉄道自動車 頸城鉄道が分岐していた。頸城鉄道は大正3年(1914年)、5年(1916年)に開業し、蒸気改造のディーゼルカー機関車など独特の車両が走る軌間762mmの鉄道として知られていた。昭和43年(1968年)に両端区間が廃止され、残る百間町ー飯室間も昭和46年(1971年)に廃止され、社名も頸城自動車となった。
 次の犀潟は北越急行ほくほく線の分岐駅である。北陸新幹線金沢開業までは、特急はくたかが上越線の越後湯沢と金沢とを高速運転で結んでいた。ほくほく線は、在来線最速である160km/h運転にも耐えられる最新の設備を備えていた。現在では、快速電車がその後継として走っているが、寂しい光景となってしまった。
 しばらく走って柿崎までくると列車は日本海沿いギリギリを走るようになる。ここから先は、現在の路線より海側に使われていた(昭和35年(1960年)まで)廃トンネルが多く残るエリアである。米山、笠島、青海川、鯨波と各駅に停まり、越後線との分岐駅柏崎に到着する。

青梅川駅
[使用写真]フリー素材 https://www.photo-ac.com/
撮影者:tak@さん

 柏崎を過ぎると、列車は日本海に別れを告げ、山岳地帯に分け入る。
 塚山を過ぎた先にある旧浦村鉄橋は、もともとは鉄道橋として明治31年(1898年)に設置された鉄橋で、現在では三分割され、そのうちの2橋は道路橋として現役の鉄橋として利用され続けており、鉄道土木遺産として認定されている。

 来迎寺という駅がある。明治44年(1911年)に軽便鉄道として、来迎寺から小千谷旧市街地を結んでいた列車が走っていた。国有化され、軌間も改軌され国鉄魚沼線として細々と営業していたが、役割が被る上越線と並行していたために赤字ローカル線のまま、昭和59年(1984年)に廃止されてしまった。
 また、来迎寺からは、越後交通来迎寺線という私鉄も分岐していた。こちらは、魚沼線とは反対側の長岡方面へ延びる路線であったが、平成7年(1995年)に廃止されてしまった。来迎寺という駅は、一地方の小駅ながら、交通の要衝として機能していたのである。
 宮内で上越線と合流し、この列車の終点でもある長岡に到着した。

15時50分、普通列車(1337M)は終点の長岡に到着した。

 次に乗車予定の列車は最終ランナーの16時16分発の新潟行である。

 長岡は、諸説あるようであるが、上杉景勝の懐刀、直江山城守兼続の生誕地であるとも言われている街であり、幕末には、長岡藩士として、戊辰戦争で官軍と戦った河井継之助を輩出した街でもあるそうである。
 両者とも、義に篤い人物であり、長岡という街がなんとなく後光がさして見えるようなそんな心地にも感じる。
 また、明治以降は油田の発見もあり、機械工業の街として栄えた街であり、現在では精密機械などの製造業の工業都市として栄えている。

 中越地方最大の都市の駅のホームで最終ランナーである列車を待つこととする。

次回へつづく


〔表記の仕方について〕
※時刻表や地図帳に基づく事実については、グレーの引用四角で囲って表記した。
※それ以外の内容については、原則的にフィクションであるが、街の紹介や、参考文献に基づく歴史の紹介は事実に基づくものである。


〔参考文献〕
・JR時刻表2024 7月号 (株)交通新聞社
・全国鉄道地図帳 昭文社
・ビジュアルワイド図解 日本の城・城合戦 小和田泰径著 西東社


【今回のマップ】

[使用マップ]国土地理院地図GSI Maps

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