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時刻表に乗る~信越本線の今をゆく~vol.3

3.軽井沢の高原をゆく

 バス乗り場は駅前にあった。JR関東バスが運行しているバスだ。
 ほかにも、「峠の釜めし」で有名な「おぎのや」など、見所満載である。

定刻8時10分、峠越えのバスは横川駅前出発した。

 バスのルートは国道18号線に沿っているようだ。
 出発するとすぐに「碓氷峠鉄道文化むら」が見える。HPを見てみると、EF63形機関車の体験運転や、碓氷峠の歴史を知ることのできる展示など、かなり楽しめそうな内容である。
 しばらく住宅地と耕作地が入り混じったエリアを走行する。このあたりが、旧中山道の坂本宿の宿場だったようだ。
 坂本宿をすぎると、いよいよ峠道に入る。バスは右に左にカーブを切りながら、急坂を上っていく。

旧信越本線碓氷峠断面図

 所々で、信越本線旧線の跡地が垣間見える。
 それにしても、急な坂道だ。軽井沢まで高低差500m以上あるので、それもうなずける。
 30分程峠道を走ると、もう軽井沢に到着である。
 こちら側も、信越本線が容赦なく分断され、何か痛々しい心持である。
 
 軽井沢駅は、新幹線の駅もあるため、かなり規模の大きな駅に見える。
 ここからは、新幹線開業によって信越本線が移管された、しなの鉄道線に乗って、先に進むこととする。

 避暑地としての軽井沢のスタートは明治19年(1886年)、カナダ生まれの宣教師アレキサンダー・クロフト・ショー氏が当地を訪れ、その美しい清澄な自然と気候に感嘆し、家族、友人たちにそのすばらしさを推奨して、その夏この地へ避暑に訪れたのが最初だと言われている。明治21年(1888年)には旧軽井沢の大塚山に簡素な別荘を建て、内外の知名人に軽井沢が保健と勉学の適地として紹介したため、ショー氏の友人たちである宣教師の別荘が年を追って建ち始めた。そして明治26年(1893年)には初めての日本人所有の別荘も建てられた。
 その発展の裏側には、高崎から延びてきていた信越本線の横川ー軽井沢開業(明治26年(1893年)も大きく寄与していた。
 そして、第一次世界大戦の戦争景気を受けて、日本人有産階級が多くの別荘地を建てはじめ、別荘地向けの商店やスポーツ施設が整備され、現在の軽井沢の原型が整った。

 ここから先は、旧信越本線で、しなの鉄道線である。同線は、北陸(長野)新幹線開業時に、長野県、沿線市町、経済団体などが出資し、平成8年(1996年)に「しなの鉄道株式会社」発足し、平成9年(1997年)の新幹線開業と同時に篠ノ井ー軽井沢間(しなの鉄道線(長野まで乗り入れ))で旅客鉄道事業を開始した。その後、北陸新幹線金沢開業時に妙高高原ー長野間(北しなの線)も同様に開業した。

8時55分、普通列車長野行(2631M)は定刻通り軽井沢を発車した

 軽井沢を出て二つほど駅を進むと、「信濃追分(しなのおいわけ)」という駅に到着する。「追分」という地名は全国各地にあり、個人的には語感が気になる地名なのであるが、意味としては、街道の分岐点という意味がある。信濃追分も中山道と北国街道の分岐点であり、ここは中山道の追分宿でもある。

 このあたりから、小諸までの沿線風景については戦前の歌人若山牧水がその著書「信濃の晩秋」の中で以下のように記している。
『軽井沢から小諸まで一時間あまり、この線路の汽車は全然浅間山の裾野の林のなかを走るようなものである。時に細い小さな田があり、畑が見ゆるが、それとても極めて稀である。林は多く広々とした落葉松林で、間に雑木林を混えている。
 それらが少しもうあせてはいるが一面の紅葉の世界を作っているのだ。雑木の中に立つ白樺の雪白は幹なども我らの眼を惹く。車窓から続いてそれら紅葉の原にうららかに日のさしているのを見渡しながら、明るい静かな何という事なく酔ったような気持ちになっていると、その裾野のはて、遥かに南から西へかけて連なり渡った山脈の雄々しい姿も自ずと眼に映って来る。中でも蓼科山と想わるる秀れて高い一角に真白に雪の輝いているのが見ゆる。ほどなく小諸駅についた。』
 季節が違うので、雰囲気はだいぶ異なるが、山々に囲まれ、樹林帯に囲まれた沿線風景が目に浮かぶようである。
 牧水がこの沿線を通ったのが大正8年(1919年)11月頃とのことなので、その年に数回噴火している浅間山はもしかしたら、噴煙が上がっていたかもしれない。

[使用写真]フリー素材https://www.photo-ac.com/
撮影者:Photo Nomadさん 

 浅間山の存在感に圧倒されながら、私の乗っている列車も30分程で小諸に到着した。

 小諸は、「平家物語」にも名前が出てくる古い街であり、戦国時代に入ってから、武田信玄の家臣依田信蕃が信玄の命で城郭を整備したと言われています。武田氏が滅ぶと、織田方の滝川一益に従い、信長の死後は徳川方に従った。徳川方に従ったものの、北条方の城攻めの際に討ち死にしてしまった。
 豊臣秀吉の北条征伐後は、恩賞として、仙石秀久が城主として入城する。この際行われた、城郭の大改修や、城下町の整備が今の小諸の礎となった。

定刻9時23分、列車は小諸を出発した。

 しなの鉄道は、もともと本線級の信越本線を引き継いでいるだけあって、揺れも少なく乗り心地もよい。
 夏の高原を走る列車は、快調に走っている。

次回へつづく


〔表記の仕方について〕
※時刻表や地図帳に基づく事実については、グレーの引用四角で囲って表記した。
※それ以外の内容については、原則的にフィクションであるが、街の紹介や、参考文献に基づく歴史の紹介は事実に基づくものである。


〔参考文献〕
・JR時刻表2024 7月号 (株)交通新聞社
・全国鉄道地図帳 昭文社
・駅名来歴辞典 国鉄・JR・第三セクター編 石野哲著 JTBパブリッシング 


【今回のマップ】

[使用マップ]国土地理院地図GSI Maps


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