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書けない理由

こんにちは。
クリエイターゆうのです^_^

私は、このnoteでの発信でをしていくにあたり、改めて自己紹介をしているところなのですが。
何記事かにわたり、まずは、私と言う人間を知ってもらいたくで書いています。
この自己紹介シリーズが終わったら、日々の暮らし、子育て、パートナーシップ、Podcastから感じた気づきや、私なりの考えなどをテーマを設けて発信していこうと思っていました。

この発信で、どんなことを感じてもらえるかは、人それぞれだと思います。
でも、同じように悩んだり、苦しんだりしながらも、前を向こうとする方の勇気づけに少しでもなれたらな、という想いを持って発信をし始めることにしたのです。
そして、自己紹介記事の子育て期に関す記事を書きかけているのですが、書けないんですよね〜。
悩みの渦中にいるからか、進めないと言うか、言語化できないんですよね〜・。
絶賛子育て中な私だからこそ、伝えられることも多いと思うのですが、今は、逆に誰かに勇気づけられたくなってしまっています。笑

ここ最近は、娘の癇癪というものに完全に翻弄されていて、noteを書く暇も隙もありません。
この癇癪に関する知識は私の中では乏しく、何で起こるのか、娘に何が起こっているのかさえ分かりません。
自分の子供のことなのに。
情けないです。
しかし書くこと。やはりそのことで、私は自分を保てているようにも思えるのです。
こんな風に自分の娘をネタに、発信をするのはどうなんだろうと思ったのですが、同じように悩んだり、同じ経験された方で何か教えていただけるならコメントいただけたら嬉しいですし、私の経験が誰かをそっと励ますものになれたらとやっぱり思い、ここに数日の私の日記を記します。

癇癪日記📔

10/11
一昨日から、娘にかける言葉掛けを意識し、変え始めた。
iメッセージを積極的に取り入れた。
それにプラスαで、認めることを取り入れた。効果は敵面。
娘はずっと、私に認めてもらいたかったようだった。
そして、その方法を取り入れた翌日には、大きな行動の変化が見られた。
普段なら、娘は自分の物を壊されたり、息子に邪魔をされると怒る。気が狂ったように。
そして、息子を殴るか、暴言を吐き続ける。
私が静止を促すと、怒られていると捉えて物凄い叫び声を上げる。そのやりとりがトリガーとなり、癇癪が起きるサイクルとなっていた。
しかし、その日は違った。息子を殴るでも、暴言を吐くでもなく、私の側にやってきた。
そしてこう言った。
「壊されて、悲しかった。」と。
そして、粉々にされたスーパーボールを洗面所に、大切そうに並べたのだ。私は、悲しかったねと娘の言葉を繰り返した。
娘は、私に手を伸ばした。
私はすぐに娘の手を取り、抱き寄せた。
こうしてやりたかった。
もっと早く、こうしてやっていればよかった。
そう思うと、ふと娘が3歳ごろの記憶が蘇った。
あんなキツく当たる必要など無かった。ただ、抱きしめてやること。それがなぜ、あの時出来なかったんだろうと少し苦しくなった。
娘の悲しそうな顔が思い出された。
そして、グッと強く握っていた娘の小さな拳が脳裏をかすめた。過去に戻ること。
いくら願っても、もう二度と戻ることはない。
しかし、今も、当時の傷を抱きながらも手を伸ばす娘が、ここにいる。
進みながら、やり直そう。
あの当時できなかったことを、とにかくやり直すんだ。
暖かく、まだまだ小さく頼りない娘の背中を撫でた。
娘は、黙って私に身を任せてくれた。言葉での愛情と承認。
そして、言葉のない温かさで伝える愛情と承認。
どちらも大切なものだったんだと、今更ながら気づくことができた夜だった。

10/12
昨晩、やはり癇癪が起こった。
きっかけは、息子のおもちゃの片付けだった。
息子は自分で片付けたかったようで、娘の申し出を奇声により遮った。
そのことに腹を立てた娘は、怒り口調になり語気を強めた。そこで雲行きが怪しくなったのを感じた私は、すぐさまPlanBへと切り替えた。
「ママのお手伝いしてくれへん?」
何か手伝いたい、役に立ちたい、してあげたいと言う娘の感情を殺さぬよう新しい居場所の提供をしたのだ。
本音としては、娘自身の片付け(ランドセルや、給食袋など)をして欲しかった。
しかし、その事を促すと、確実にトリガーとなるので私は自分の本音は押し殺した。その甲斐あって、娘の曇りかかった顔は一気に晴れた。
が、「お箸並べてくれへん?」と私が伝えると、娘の地雷を踏んだようで、一気に大爆発へと繋がった。
PlanBは失敗となった。
娘は、箸並べは息子の仕事だと怒り狂い、奇声を上げて泣き始めた。
私は、この声に耐え切ることが出来なかった。
「いい加減にしてくれへん。」高圧的な態度で、娘の伸ばす手を今日は拒絶してしまった。
もう限界だった。
ここもダメ、あそこもダメ、どこに地雷が埋まってるのか。
平坦な道に見えるあちこちに地雷が埋まっており、いつ爆発が起こるかと常に緊張しているような心理状態だった。
そのため、夕方からストレスが知らず知らずのうちに、私の両肩にのしかかっていたようだ。娘は大きな声で、叫び続けた。
私は無言で淡々と食卓の用意をした。
そして、私は食欲が失せ、食べることに気力を使うことをやめてしまった。
子供達のみの食卓。私は、変わらず淡々と台所の片付けをこなした。
その間も静かで冷たく、まとわりつくような不快な視線が私に絡みついた。
娘が、こちらをじっと見つめながら食事をしていた。その視線が辛くてたまらなかった。
私は、深く深呼吸し、とにかく気持ちを沈めた。そして、その視線から逃れることでなく、向き合うことを選んだ。
食欲が無いものの、子供達と共に食卓を囲むことにする。
娘は黙り込み、息子は陽気な奇声を上げている。そんな中、一度も夫の顔は浮かばなかった。
いつもなら助けて欲しい、なんで私ばっかり、逃げ出したいと思うのだが、今日は違った。
夫の早い帰宅が見込めないと絶望したわけでも、孤独の殻に閉じこもったわけでもない。
この状況を、しっかりと見つめ、夫婦で共有しようと考えたからだった。
とにかく、もう一度娘と視線を合わすことにした。
娘は、私からの言葉を待っている。しかし、私は次なる言葉が出ない。
また、間違えれば爆発が起きる。私は、音に敏感で、特に泣き声に過度のストレスを感じてしまう。
そのため、もうあの奇声を聞き入る隙を与えたくなかったからだ。
しかし、そんな長い沈黙を破ったのは、娘だった。
息子の奇妙な奇声のお陰で、気が緩んだのか、こちらに友好的な視線と微笑みを見せたのだ。
私はそのチャンスを取りこぼすことなく、拾い上げ会話へと繋げた。
そして、落ち着いた際に娘と話すことが出来た。これらの一連の流れを子供達が寝静まった夜中に、夫に吐露した。
話しながら気づいた。
私は、少し頑張りすぎている。また、知らず知らずのうちに、一人でなんとかしなければになっていたのだと気づかされた。
夫の意見も聞いてみた。夫も娘の癇癪は、目の当たりにしているがさほど気にならないとのことだった。
よくある兄弟喧嘩に思うとのことだった。
放っておけばいい、気にしないことも大切だと言った。
少し、その言葉に腹が立った。そして、最後にこう述べられた。
「俺から見たら、単純にママとの時間が少ないし、甘えたい気がする。」悪気があって言ってるのではないのは理解しているが、正直残念に思った。
結局のところ解決策は、私の頑張り次第だと言われているような気がしたからだ。しかし、それは私の感じ方であり、夫の伝えたいことは私がもっと頑張ればいい、と言うことではない。
意見が違うのは仕方がない。娘への見え方が違うのも仕方がない。
しかし、この違いが生じるものとし受け入れ、娘に関する情報を夫婦で共有しておくことは大事だ。
今までは、私がどんなに辛いか。頑張っているか。私のことばかりを話していたが今回はやめた。
私ではなく、私たちに主語を変え、私の行動を変えるべきだと感じたからだ。
私たち家族にとって、ベストな方法は何か?
私だけが良くなる策では良くない。もちろん娘だけが良くなる策でも良くない。
私たちが互いに納得し、失敗しながらも進むことが重要になってくるからだ。
その答えは、すぐさま見つかる事もない。
しかし、娘に関する情報を共有し、夫婦での意見の違いに理解を示すこと。
そして、何よりも娘の気持ちや考えを尊重し、家族全員である私たちで話を進めていくことにしようと、昨晩の夫婦会議は終わった。
とは言え、やはり、違いに耳を傾けるのは容易なことではない。
しかし、私はこの家族が、ただ好きで愛したいから、私から私たちと言う視点を持てるよう歩み寄ることに今日決めた。
そして、なんとかしよう、なんとかしようとし過ぎな自分にも気づかされた。
癇癪は、正直、私にとってきつい。音が無理なのだ。あの奇声が。
しかし、癇癪という大声を発することで、娘の感情を放出できていると言うことにもなる。
だから、癇癪を防ごう防ごうと回り道をし、回避するのもほどほどにしていこうと思った。
夫の言う通り、気にしないようにすることも、娘にとっては大事なことなのかもしれないなと感じた。
違いを少し受け入れることができると、違いは強い味方となってくれるのだと感じた。

10/13
昨晩も盛大に娘は、癇癪を起こした。
体調が少し悪いのと、校外学習の疲れも重なっているようだ。
とにかくちょっとした事で、イライラし八つ当たりをしてくる。
こうなると、もう、娘には私の言葉は届かない。そして、ハグどころか近づくことすら出来ない。
この状況に、私はどうしてもイライラしてしまう。週末ということもあり、私自身の疲労も溜まっているのだろう。今週は特に癇癪が多く、疲労困憊な週だった。
たくさん頭も使ったし、心も疲弊した。
私の精神状態は、もう糸がピンピンに張り詰めている状態で、いつ切れてもおかしくなかった。
そんな状態のため、娘の「違う!」と言う否定のたった一言で、とうとう保たれていた私の精神の糸がぷつりと切れてしまった。
そして私は、娘に心無い酷い一言を浴びせ、家を出た。
疲れてしまったのだ。娘に向き合うことに。
そして、私は家から逃げ出し、すぐ前の公園のベンチに腰をかけた。
本当は、遠くに逃げたかった。でも、私に逃げる場所は無かった。
それにしばらくすれば、きっと子供達が家から出て来てしまうだろうから。
案の定、しばらくすると「ママー、ママー。」息子のつたない呼びかけが、漁港内に響いた。
ママと呼ばれるのを、妊娠中はあんなに待ち侘びたのに、今はこの言葉が苦しくてたまらない。
戻らなければ。
私が居る漁港沿いの公園に来るには、道路を渡ってこなければならない。
息子は車を認識しているが、やはりまだ危なっかしい。そして、娘もきっと息子を制止することは出来ない。
暗くなりつつある今、視界も悪くなり危ない。何かあっては、悔やんでも悔やみ切れない。
しかし、足がどうしても子供達へと向かないのだ。
そんな自分の状態が苦しく、そしてとてつもなく悲しかった。
苦しさと責任の狭間で、何とか足を動かし、子供達の方へと向かった。
息子が私の姿を捉えた。やはり、道路の真ん中で叫んでいた。
うんざりした気持ちと、安堵が複雑に絡み合った。
私は微笑むことも、泣くことも出来ないまま、息子の方へ歩みを進めた。
息子は不安げにあの言葉を叫びながら駆け寄ってきた。
「ママ〜!」
その姿を確認すると、娘はサッと踵を返して、家へと戻って行った。
私はどうしても家の扉を開けることができず、息子と玄関前に立ちすくんだ。
幼少期、母から放り出され、悲しかった感情がなぜか思い出された。
今、出て行ったのは、私の方なのに。すると、娘が出てきた。
バツが悪いが、私は家へと入ることにした。逃げたい。一刻もこの状況下から、逃げ出したい。
しかし、私は自らがかけた母親と言う鎖に繋がれて、私は逃げることが出来なくなっていた。
そんな私を見透かすように、娘は軽蔑と怒りの視線を、私に強くぶつけた。
そして、口を開くとまた口論となった。娘はひたすら「違うねん。違うねん。」と言い続けた。
否定されているのではない。しかし、もう拒絶のように感じ、私は耐え切れなかった。
何をやろうと、何を言おうと、娘は違うと言い続けるばかりだった。
私の認知が歪んでいるのか、娘の認知が歪んでいるのか。はたまた、二人の認知の歪みが、私たち親子を複雑化してしまっているのか、冷静さを失っている私には考える余地はなかった。
私たち親子はおかしいのだろうか。誰かこの問いの答えを、私たちに教えてもらえないだろうか。
この問いの渦に呑まれ、溺れるような感覚に陥った私は、生きるために息をした。そして、心や肺いっぱいに広がった悲しみと言う貯まった水を、一気に吐き出すようにまた、心無いひどい言葉を娘に向かって吐きかけた。
「この家にいると苦しい。ミーといると苦しい。生きてたくないぐらい、苦しい。うんざりやわ。」
この言葉の意味を十分理解できる年齢の娘は、黙ってポロポロと涙を流した。
私は、このような言ってはならない言葉を、幼少期から娘に浴びせ続けてきた。
こんな風に娘の認知が歪み、いつも孤独の中に生き、一人で彷徨い続ける選択をさせているのは、他でも無い母親である私なのだとようやく受け入れた。
そして受け入れたと言う耳障りの良い言葉の中に埋もれ、娘を直視することを私は避けた。
そうやって、私はまた自分だけ逃げたのだ。
たまらず、私はまだ仕事中の夫に電話をかけた。「早く帰って来てほしい。」と。
夫は何も聞かなかった。
そして、娘に代わるように言った。娘は携帯を握りしめ、2階へと上がった。
それから、30分以上は降りてこなかった。
私は、壁に寄りかかるようにして座り、いつの間にか眠っていたのだ。
「ママ、泣いてるから電話代わられへん。」娘の声で、目が覚めた。
うっすらと目を開けると、ケロッとしている娘が私の目の前に立っていた。
そして、私はこう伝えた。
「泣いてないで。寝てしまってたんや」と。すると、娘が鋭いツッコミを入れた。
「寝てたんかい!笑」と。受話器越しから夫の笑い声が聞こえた。私は少しづつ戻ってくるような感覚と共に、眠気から離れた。
そして、夫と少し会話を交わし、電話を切った。娘は平然としていた。
私だけがまだ、引きずっているようだった。しかし、娘の傷が消え失せた訳ではない。
とにかく体を起こし、晩御飯をしないとな。そう思い立ち上がると、娘が、私の真正面に立ってきた。
ちょこんと息子も添えられたように、娘の横に立った。
「ごめんなさい」娘が真っ直ぐ私を見つめた。そのあと、ニッと笑って見せた。
前歯が抜けて、すきっ歯になった歯が、間抜けさをわざと演出しているかのようだった。
「ママもごめんなさい」私は、取り返しのつかないことをした。
言葉の暴力を浴びせたのにも関わらず、こんな粗末な謝罪で、自分の苦しさと娘から逃れ、尚且つ許しを請うていると思うと吐き気がした。
しかし、許されたかった。そして、受け入れてもらいたかったのだ。
なんて自分勝手なんだと思うことしか出来なかった。急いで夕食の準備をした。
せめて、子供達のお腹だけでも満たしたいと詫びる気持ちを込めて。

夫がまもなく帰宅し、私はとにかく横になった。
しかし、夕食後、まともや娘は難癖をつけ、今度は夫に絡み始めた。
夫もできるだけ娘に伝わるように、懸命に話している。しかし、違うの一点張りで会話が成り立っていなかった。
温厚な夫だが、もう時期その温厚さが失われるであろうと悟った私は、娘を連れて気分を変えさすため外へ出た。
夫は息子のお風呂を担当し、娘は私が担当することに。
娘は私がいいと言ったのだ。そして、外の冷たい風でクールダウンしつつある娘と、ようやく話ができた。
そこで、私は、娘にしんどくないか、辛いとこはないかと尋ねてみた。
娘はしんどいと返事をした。
なんで、こうなっちゃうんかなと私が独り言のように呟くと、娘も何でやろうと返した。
娘にとある相談を持ちかけた。ママとミーのことを話に行って、もっと知ってみないかと。
自分たちのことを知ってみて、もっと仲良くなれるようにしてみないかと。
そのために、話をしに行ってみるのはどうかと、スクールカウンセリングを提案した。
娘は、そうしたいと言った。
昨晩は、夫も疲れて早く寝てしまったので、この娘とのやりとりに関してはまだ話していない。
夫はどんな反応をすだろう。私が、小児精神科に抵抗を感じているように、カウンセリングの言葉に拒絶や抵抗を感じるだろうか。
しかし、私たちには何か別の手立てが、助けが必要なことは確かだ。
その夜、みんなが寝静まった後、私は認知の歪みや行動認知療法について調べてみた。
そして、怒りのコントロールが難しく、しんどそうにしていた娘に買った本を見直していた。
最近、娘はこの本を読んでいる最中に、眠りに落ちるようになっていた。
今日は、安心してゆっくり睡眠をとらせてあげたくて、この本を枕元からリビングに降ろしていたのだ。
読んでいて思った。
自分でも知識として、情報を得ることは確かに大事だと。
しかし、そうだと決めつけて対処しなければ、何とかしなければと、自分や娘の不安を煽る要素にはしないでおこうと肝に銘じた。
長くしんどい金曜日だったなと、私は深い眠りについたのだった。

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