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知性を愚行に親しませようとする執拗な傾向

続きは書いていきます。

ジャンポールサルトル面白いよおお

タイトルに文言はなぜ私がメモをしたのかよく覚えてませんが、くすぐられた文章だ。

「己の矛盾」「自分自身の限界」「方向転換」「削除」「透明性」「力学」を洗いざらい、曝け出しながら、それでも最後に彼は
「生きている作家というのは、姿を隠すものだ」
「人はものを書くとき、自分の本性を隠すものだ」と述べていたらしい。

記憶とは
要するに真実の虚構であるとする断定。
冒険とは
幻想であるとの発見
さらにとりわけ
過度の明晰と狂気というは曲に先立つ限界的体験の中で実現する
現実存在と偶然性の知覚。


とりわけ思想を持っている者、ものを考え始めているもの、すっかり出来上がったものではなく、自ら作りつつある者に心を寄せる。

なぜか、自ら作りつつある者、自分を探している者へ、恒常的な関心、青少年との結託、あらゆる国、あらゆる巣類の青少年との結託。
位置する者への無条件の支持。


書いていて思ったけれども、なんだかフランスっぽい印象がある。
この無条件ってワードは以前岡本太郎がフランスにいた頃に書いていたワードと似ている。

全ての学生に関心を抱き、全てを理解されるように試み
彼らに語るだけでなく、彼らの話に耳を傾けることを前提としている。

何を書いてあるのかさっぱりわからない人がいると思うが、私の書いたメモをただひたすら、書いているだけなので、ご了承くだされ!

「人間に関することなら、皆、人ごととは思わない。」
全ての人間をお互いに連帯するものにするだけでなく、集団的に責任を持つこと。


哲学者とは
哲学の教授、専門家、哲学書の著者ではない。
その人にとって世界の「観念」は世界の動きと切り離せない
そういう人のことを言う。

つまり、そう言う人にとって世界は「意味=方向」を持っている。
この意味=方向を、彼は思考によって熟知するだけでなく、自分自身の主体性において体現している。

伝統的文化のあらゆる先験的原理を根本的に再検討
伝統と過去は恣意的なものであって、それよりも、体験された状況の方がはるかに重要

「書くことになんの価値もないが、書くこと以上に価値があるものは何もない」
「最も平凡な出来事が一つの冒険になるには

それが「語られる」必要があり
そして「語られる」だけで十分なのだ。
この事実が人々を欺く。

人間は常に物語の語り手であり、自分の物語や他人の物語に囲まれて生きており、自分の身に起こる全てのことがあたかも物語るように生きようとしてしまうのだ。

だが、選択しなければならない。

生きることか、語ることか。



我々は自由の刑に処されている。
「羞恥は根本的に、誰かの前での羞恥」

他者の具体的な諸関係

第一 愛、言語、マゾヒズム
第二 無関心、欲望、憎悪、サディズム

自由とは、しようと思ったことができることではない。
そうではなく、しようと思うことなのだ。

世界に投げ出されているという事実を積極的に引き受け、投企によって世界に意味を与えることが本来的なあり方だ。


「負けるが勝ち。」


と、私の箇条書きにメモをただひたすらに書き殴ったわけですが
それこそ、書くこと自体に価値はなくて
書いた本人にだけ価値を感じていることなのかもしれない。

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