変わらない視線

ぼくが小学生になった時、ぼくは〈小学生の息子〉になり、同級生の桶野くんと〈小学校の友達〉になった。
中学生になった時、桶野くんとは別れることになり、〈遠くの友達〉になった。今でもぼくは〈遠くの友達〉のままでいるのだろうかと心配になった。
遠くの街に引っ越して、ぼくは〈転校生〉になった。なかなかみんなと〈中学校の友達〉になれなかったぼくは、次第に〈ひとりぼっち〉になった。
ある日の帰り道、家の近くの駐車場に白猫を見つけた。白猫はひとりぼっちだった。ぼくをじっと見つめて動かないから、ぼくも白猫を見つめて動かなかった。そこに1台の車が入ってきて、白猫は走って逃げて行ったので、ぼくは家に帰った。家に帰ると、ぼくは〈ひとりぼっち〉から〈中学生の息子〉になった。
次の日の朝、駐車場に白猫が丸くなって寝ていた。白猫に近づくと、すぐに気づいてぼくを見た。でも、またすぐに丸く寝なおして目を瞑った。ぼくが傍にしゃがんでしばらくじっと見つめていると、立ち上がってすたすたどこかに歩いて行ったので、ぼくは学校に行った。
その日の帰り道、また同じ駐車場で白猫に会った。塀の上に座っていたので、ぼくはその塀に寄りかかって、白猫の方をあまりじっと見つめたりはしなかった。ぼくはそこで本を読んだり、たまに少し塀の上を見たりした。白猫はずっと座っていた。ずっと立っていたぼくは疲れて、家に帰ることにした。
「じゃあね」と言うと、
「にゃあ」と鳴いた。
それからぼくは、毎日白猫に会いに行った。
白猫はいつも寝ていたり座っていたりするだけで、あまり動きもせず、鳴きもしなかった。それでも、ぼくが帰る時に「じゃあね」と言うと、「にゃあ」と鳴いた。
ある時、〈学校の女子〉が何人かで白猫の傍に集まってわいわい話していた。彼女たちの前では、ぼくはきっと〈なんか暗い男子〉だから、気付かれないように駐車場から離れて様子を見ていた。
女子の一人が寝ている白猫に触ろうとすると、白猫は素早く反応してその手を睨んだ。触ろうとした女子はすぐに手を引っ込めて、起き上がった白猫は塀に飛び乗ってそのままどこかに消えてしまった。
それを遠くで見ていたぼくは、なぜか少し笑っていた。

学校に行くと、ぼくは相変わらず〈ひとりぼっち〉だった。それをいつも見ていた〈担任の先生〉は心配して個人面談をしてくれた。「仲良しの子とか、話せる子はいる?」とか、「なんでも相談してね」とか、初めて言われたのにどこかで聞いたことがあるようなことを言ってくれた。その時、ぼくはたぶん〈心配な生徒〉だった。
先生の言葉にぼくは、
「友達いるので、別に大丈夫です」
と言って返した。

そういうことがあってなんだか疲れた
という話を塀の上に向かってしたら、つまらなそうにあくびで返された。けれどその日も「じゃあね」と言えば、「にゃあ」と鳴いた。帰る前、試しに胸の辺りに触れてみた。ぼくの手をちらりと見てはいたけれど、噛みついたりはしてこなかった。指先でそっと撫でたフサフサの毛は柔らかくて温かくて、優しかった。
だからぼくたちは、毎日駐車場で集合した。
白猫と一緒にいる時だけぼくは、〈中学生〉でも〈中学生の息子〉でも〈なんか暗い男子〉でも〈心配な生徒〉でも〈ひとりぼっち〉でもなかった。
猫は人の立場も事情も知らないから、ぼくを〈何者〉にも置き換えてしまうことはなかった。
テストの成績が悪くて母に怒られた時も、嫌いな体育祭を仮病で抜け出した時も、クラスのぼく以外のみんながクラス会に行っていた時も、たとえぼくに何があっても、その視線の前でだけは〈何者〉でもなく、ぼくはただぼくだった。


その日は車が1台だけとまっていて、スーツを着たおじさんが電話をしていた。
その足元に白い猫がだらりと横たわっていた。見慣れない人のすぐそばでゆったりしていることが珍しくて近寄ると、白猫の身に何が起きたのかすぐにわかった。ピクリとも動かず寝ているのに、不気味に目が開いていた。その目は遠く、遠く、どこか別の世界を見つめていた。
ぼくは膝をつき、地面にぐったり横たわる白猫の腹を初めて手のひらで撫でた。ゆっくり、そっと、何回も撫でた。あの時とは何もかも変わっていた。ボサボサになった毛は硬くて冷たくて、涙がこぼれた。
白猫の顔を覗き込んでも、もうぼくを見てくれなかった。〈何者〉としてでもなく、いつも真っすぐに見てくれた変わらない視線は、もうぼくには向いてくれなかった。だからぼくは、
「じゃあね」
と言った。でも、何とも返ってこなかった。
どこかの白い野良猫の、たかが1匹いなくなった。
ただそれだけのことが、すべての終わりのようだった。
そうして、ぼくはまた〈ひとりぼっち〉になった。


結局、中学時代ずっと〈ひとりぼっち〉だったぼくは所謂〈がり勉〉になった。ひたすら一人で勉強に打ち込んで、進学校と言われる高校でも〈優等生〉になり、卒業後は〈大学生〉になった。遠い地方からもたくさん学生が集まるほど有名で大きな大学に進んだ。ここでぼくは、とても久しぶりに〈小学校の友達〉に戻った。桶野くんはずっとぼくのことを覚えていてくれて、ぼくは彼にとってずっと〈遠くの友達〉のままでいられたのだと知った。そして、ぼくたちは〈大学の友達〉になった。
桶野くんはぼくの知らない間のことを楽しそうに、たくさん話してくれた。だからぼくも、桶野くんが知らない間のことを楽しく話そう。
あの駐車場で毎日会っていた、大切な友達の話をしよう。

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