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証し「痛い子」新しく生まれる

【証し:「痛い子」新しく生まれる】

宣教師訓練センター 石野 博

イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
ヨハネの福音書3章3節

気がつけば、今年の5月3日は、私が主イエスにあって新しく生まれた記念の日から、30年の節目になる。ところが、私のいい加減な性分だろうか、あの日から早30年の記念であるにもかかわらず、これをすっかり忘れていたのだ。我ながら困ったものだ。小学校時代の私は、いわゆる「痛い子」だった。昔はどんなクラスにも1人2人、毎回必ずと言っていいほど忘れ物をする子、宿題をやってきたためしのない子、突飛して空気の読めない子、何日も同じ服を着ているだらしのない子がいたものだが、まさに私がそれだった。今でこそ「発達障害」という言葉が流通し理解されているが、当時は、そんな用語はなかったし、社会的な認識もなかった。おまけに母にも発達障害的傾向があり、状況はネグレクト(育児放棄)に近かった。そういうわけで私は幼少の頃から、あちこちぶつかりながら恥をかき、傷つきながら成長してきたように思う(この点は今も奮闘中。アイン・シュタインやスティーブ・ジョブズも発達障害だったそうな。なんと言う励ましだろうか)。 私自身は、つい、2、3年前まで全くその自覚がなかったのだが、診断されて始めて自分がそうだと認識した。そういえば幼少の頃から、いつになっても靴紐が結べなかったり、服のボタンの掛け違いがやたら多かったりと、身につまされることが多々あったことを、言われて初めて気がつく始末だ。
このように、色んな意味で、こんな「痛い子」の私にも届いた、主イエス様の尊い救いを振り返るとき、込み上げる感動を抑えることは、到底不可能である。

そこで30年前、私はどのようなところから切り出されて、救いの恵みに与ったのかを思い出し、それを書き留め、記録に残そうと思う。そうすることで主がどれほど憐れみ深い方であったのかを自分自身に刻みたい。同時にこれが、どなたかに届き、何かしらの役に立つなら幸いだ。かなりボリュームのある証しだが、お分かちすることを許していただきたい。きっと心に響くこともあるはずだ。

【創価学会員の家庭に生まれ】
さて、私は30年来の創価学会の信者だった両親のもとに、5人兄妹の第4子として生まれた。家族構成は、父と母、5歳上の長男、3歳上の長女、1歳上の次女、次男の私、5歳下の3女の妹だ。
創価学会は仏教系の新興宗教なのに、まるで一神教のような排他的なところがある。それで彼らは、創価学会の教えこそが唯一の真理であるかのように振る舞う。その影響で、私は物心のつく幼い時から創価学会以外の他宗教に対して否定的で、攻撃的でさえあった。特にキリスト教に対してはそうで、私自身、キリスト教は最悪な邪教だと両親を通して教えられていたことから、自分の人生にキリスト教が関わることなど絶対にあり得ないことだと信じて疑わなかった。実際に私は、それまでの人生で、キリスト教会に足を踏み入れることは一度もなかった。
我が家では、毎朝、両親が仏壇に向かって題目を唱える声で目が覚めるというのが日課だった。それほど熱心な学会員だったと思う。そんな具合だから、石野家の子供たちは、クリスマスケーキを食べて祝ったことがなく、クリスマスプレゼントも貰ったことがない。教会はおろか、聖書やキリスト教に触れる機会もほぼ皆無だった。稀に読み物や聖画、テレビなどで、キリスト教や主イエスが取り上げられるような時など、幼い私は激しくそれに反発し、憎しみさえ抱いていた。私が高校生の頃、友人と、その友人の友人と食事をしていた時のことだ。一緒に食事をしていた彼女がキリスト教徒だとわかると、非常に攻撃的に反応したことを覚えている。当時の私は、聖書もキリスト教も全く知らなかったにも関わらず、理由なくこれを憎んでいた。
そんなわけで、私の幼少から青年期の救われる前の人生は、絵に描いたようにひどい人生だったと思う。こんな私が、18歳の時にキリスト信者になったのである、これほどの憐れみが他にあるだろうか。しかも、私が救われた数ヶ月のうちに、5人の兄妹たち含む家族の全員が救われたのだから、これは紛れもなく、奇跡以外の何者でもない。その神の憐れみが、一縷(いちる)の希望もなかった私の人生に、いったいどのように臨んだのかを分かち合いたい。

【父の死と内縁の男の登場】
自分の救いを振り返るとき、幾度かの人生の分岐点になる大きな転機があったように思う。その最初の出来事は父の死と内縁の男性の登場だった。
私が小学校2年生の8歳のとき、夏の家族旅行に行った宿泊先のホテルで、父は突然の心筋梗塞に倒れそのまま帰らぬ人となってしまった。楽しいはずの夏休みの家族旅行は、考えうる最悪の悲劇で幕を閉じた。そのとき父は、若干42歳だった。
父のことが大好きだった子供たちにとっては、口では言い表せないほどの大きなショックだ。下は2歳、上は13歳の育ち盛りの子供達5人を遺しての急逝だ。目に入れても痛くないほど子供たちを溺愛していた父にとっても、さぞ無念だったに違いない。
父亡き後、5歳上の兄は、当時の時代性もあり暴力的になっていった。家庭を治める父親の不在は、家庭全体の不安定を増大した。兄の暴力によって、警察が駆けつけ、私や姉妹が病院のお世話になったことも、一度や二度ではなかったと思う。この恐ろしい兄の存在も手伝って、父を失って以降の私の心中には、いつも言い知れぬ不安があり、追う者もいないのに、何かに怯え逃げているような、平安のない日々を過ごしていた。
父が逝って1年後、母は十数歳年上の男性と親しい関係になり、いつの間にかその男性は私たちの家庭に居つくようになった。母とその男性とは正式に再婚していなかったので、私たちはその男性を、ただ「おじさん」と呼び、父親ではない良くわからない存在として、およそ8年間をともに過ごした。母が正式に再婚をして、「新しいお父さんだよ」と言って、子供達に紹介でもしていれば、おそらく違った関係が築けたのかもしれないが、世間付き合いが苦手で若くもないカップルには、いまさら再婚する必要もないだろうという判断があったのだろう。今になって思えば、結婚の式を通じて、家族としての決意表明をすることは、単なる儀式以上に大切なことだと痛感する。しかし、聖書の教える結婚倫理など全くわからない当時の母には、無理もないことだった。
そのような中途半端な状態で、いつの間にか新しい生活が始まっており、それまでの家族の一体感は、その男性の登場によって完全に失われてしまった。母は、良く言えば恭順(きょうじゅん)な妻、悪く言えば男性に依存するタイプの女性だった。父が存命の時には、父のリーダーシップのもと、テキパキと家事をこなし夫に従う良妻だったが、父の死後は、内縁の男性のリーダーシップが正しく機能せず、お互いの弱さに甘える構造が生じた。もともと子煩悩でなかったことも手伝い、内縁生活が始まってからの母は、子育てや躾、教育には、全くと言っていいほど関心を払わなくなった。そして母は、子育てのみならず、家計や我が家の財政に至るまで、ほとんど全てをその男性に委ねきってしまったのだ。いつでも母には、その男性がピッタリとくっついていたので、私たち5人の兄妹と母との間には大きな溝ができてしまった。母に話したいことや頼みごとを持ちかけると、必ずと言っていいほど「おじさんに話して!おじさんに頼んで!」とヒステリックな反応とともに丸投げされるので、子供達にとっては大きなストレスだったと思う。次第に私たちは、要求が満たされないので、各々が自分の殻に閉じこもるようになっていった。石野家の子供たちは色々な意味で「痛い子」たちだったのだ。
 そのようにして家族の分断は進んだ。私などは、同じ屋根の下に住みながら、わざわざ自分の分の食事を取り分けて、それを自分の部屋にもって行き、家族と別々で食事を取ることも珍しくなかった。
私たち兄妹にとってその男性の登場は、父の死の悲しみがまだ癒えない時期でもあり、精神的な不安定に拍車をかけたのだ 。

【散財と愛郷からの引っ越し】
さて、2つ目の大きな転機は、散財による引っ越しだ。私が14歳のとき、つまり中学2年生の末期だが、私たち一家は、神奈川県の川崎市から、静岡県の辺ぴな田舎町へ引越すことになった。
引越しに至る経緯は「ビジネスチャンスに活路を求めての心機一転」と言うと聞こえはいいかもしれないが、当時の私には決して承服できるようなものではなかった。どういうことなのか説明させてほしい。
川崎から静岡への引っ越しに至るまでの5年間、母と内縁の男性は、仕事らしい仕事には就かず、子供たちが学校に行っている間、ほぼ毎日パチンコ店に入り浸るようになっていた。正確に言えば、当初は、何かしらのビジネスをしようと思っていたようだが、その男性も母も、お互い自制心がなく、世間知らずで、決して仕事のできるタイプの人間ではなかった。ビジネスはうまくいかず、二人が厳しい現実から逃避するようにして惰性に流された結果がギャンブルへの依存だった。「お互いの弱さに甘える構造」と書いたのはそう言うわけだ。パチンコ店に入り浸るにしても、母と男性はプロのような緻密さなど微塵もない全くのど素人だ。2人で1日30万円の負けを出すことも珍しくなかった。パチンコを打つ軍資金は、100%私の母の持ち出し、つまり父が私たち家族に遺してくれた財産だ。これが原因で、父が私たちに遺してくれたもの全てを使い果たし散財してしまったのである。
父は小さいながらも、職人たちを抱えて、自営業の塗装店を営んでいた。当時は昭和の時代で、建物を丸ごと塗り替えることによってリフレッシュすることがよくあった。父は、特に何か営業などはしなかったが、創価学会関係者からの依頼だけで十分に仕事があった。それで5人の子供達を養って余りある稼ぎがあったのだ。父が逝って間もなく、父が遺してくれた土地に建てたニュータウンの住まいは、当時バブル期だったこともあり、地価だけで1億円はくだらなかったと思う。
そんなおり、昭和天皇崩御の時期の辛いエピソードが今でもまぶたをよぎる。我が家の土地と建物は、母と内縁の男性が作った借金の担保になっていたため、債務不履行で競売物件となってしまった。子供たちは、露ほども知らぬことだった。
 そんなある日、我が家で食卓を囲んでいると、突然、見ず知らずの家族が仲介業者に伴われて、なんの断りもなく我が家の内覧に訪れた。彼らは、現に私たちが居住しているにもかかわらず、我が家を隅々まで見て回ったのだ。その時、居間のテレビから流れていたのが昭和天皇崩御のニュースだ。私は、茫然自失の虚ろな目でそれを眺めていた。今思い出しても切なくなる思い出だ。当時はバブル期の絶頂で、銀行に1億円預金しておくだけで、年間500万円の利息収入が得られる時代だった。どんなに商才がなくても、原資さえあれば、誰でも荒稼ぎできる時代である。しかし我が家は、世間の好景気とは逆行して、没落の一途を辿っていたのだ。
住む家が抵当で取られたので、我が家は引っ越すことを余儀なくされた。この時、母と内縁の男性は、静岡県でのコンビニエンスストア経営に活路を見出すべく、フランチャイズ経営を申し込んでいた。

【悩める※中二病】
(※中学校2年生ぐらいの子供にありがちな言動や態度を表す俗語。自分をよくみせるための背伸びや、自己顕示欲と劣等感を交錯させたひねくれた物言いなどが典型で、思春期特有の不安定な精神状態による言動と考えられる)

我が家は静岡県に転居することになったのだが、当時の私は、この引っ越しには強く反対していた。というのも、家庭に喜びや平安を見出せなかった私は、その不足分を学校生活や学友との関係で補っていた。生まれた時からその街に住んでいた私にとって、それは文字通りホーム・タウン(故郷)だった。私は、映画スタンド・バイ・ミーのような幼なじみの悪友との人間関係に自分の居場所を見出し、それでようやく正気や社会性を保っていたように思う。家庭生活が半ば崩壊していた反面、私は学校生活に大きな充足を得ていた。さらに、当時の私は、同じ中学校の一学年歳上の女生徒に初恋の切ない想いを寄せていたのである。完全に私の片想いに過ぎなかったのだが、なんとかその女生徒に近づきたいと、石にもかじり付く思いだった。思春期の若者なら誰もが経験する初恋の病だ。その病にかかると、人はそれがあたかも世界の全てであるかのような錯覚を起こす。この点において、当時の私は相当の重症者だ。
そんな私の大切な場所から、数百キロも離れた未知の田舎町に引っ越すことは、文字通り中二病真っ只中の私には耐え難いことだった。しかも、自分の落ち度と全く関係のない、親の不甲斐なさによってそれが押し付けられるのである。当時の私には、何があっても絶対に受け入れられるものではなかった。私は強く引越しに反対し、友人知人の親たちを頼って、何とか独りでもアパートを借り、故郷に残ろうと必死に抵抗した。しかし、14歳の子供が独りで生活できるほど世間は甘くはない。必死の抵抗も虚しく、結局、転校は避けられなかったのである。
 ただでさえ気難しい中二病の男子だ。それが、まるで体が引き裂かれるように、いやいや転校してきたものだから、手負いの熊のように荒れていた。幸い私は暴力によって発散するタイプの人間ではなかったが、いつまでたってもすさんだ心の状態から立ち直ることができないでいた。引っ越した後の私は、周りのもの全てを呪い憎んでいた。そして常に不平と不満を吐き、自分の殻に閉じこもっていったのだ。
当時、転校して間もない私が早く馴染むようにと、新しい中学の男女数名のクラスメイトが、優しく私を気遣い、家を訪問してくれたことがあった。ところが私は、彼らの純粋な善意を踏みにじり、顔も出さずに引きこもったままだったのである。「シティーボーイの俺がこんな田舎猿たちと付き合えるわけないだろ!」と、鼻持ちならないさげすみが私の心にはあったのだ。それは、今思い出しても、「どうしてあんなことをしてしまったのだろう」と、涙が出るような心痛む苦い思い出だ。
そのようにしてひねた心をもったまま、私は中学を卒業し、惰性で地元の進学校に進学したが、人生に目的も積極性もなく、慢性的な不平と不満を持っていた私である。そんな者が、徐々に高校を無断欠席するようになるのには、それほどの時間を要することではなかった。今でもなぜ卒業できたのかが不思議に思えるほど、私は欠席を繰り返した。学校も家庭も社会も、人間関係の全てが嫌で、サボってはゲームセンターで暇をつぶし、ひとり土手に横になってタバコを吹かし、空を眺めることが多かったと思う。実はこの時、自分の心の深いところでは、生きる意味や目的、人生とは何なのかと自問自答しながら、もがいていたのだと思う。今でこそ、私は当時の自分の心情に何があったのか理解できるが、高校生の私にはそのモヤモヤが何であったのか、はっきりと言葉で説明できるものではなかった。振り返ると笑ってしまうような妄想だが、「サムシンググレートでも宇宙人でも何でもいい。人間をはるかに超越した至高者がいるなら、その存在を現してほしい。このくだらない俺も社会も、全部ぶち壊して違う次元に変革してくれたらいいのに!」と、本気で願っていた。転落し続ける人生の不条理に「誰か俺を救ってくれ!助けてくれ!」と、私の魂は出口を求めて必死に叫んでいたのだと思う。そんなとき、第三の転機が訪れた。我が家を襲った完全な破産と人生で初めての教会訪問だ。

【破産と母の発病】
私が高校2年生になるころ、母と内縁の男性とは、コンビニエンスストアを経営しながら、引っ越した先でローンを組んで家を購入した。ところが、そのようなささやかな幸せが、実はまったくの虚構に過ぎなかったことが判るのには、それほどの時間を要さなかった。
母と内縁の男性とのギャンブル依存症は、この時、病的なほどの中毒になっていたのである。二人は引っ越した先でも、アルバイトに店を任せて、ほぼ毎日のように、開店から閉店まで、パチンコ店に入り浸るようになっていた。コンビニエンスストアの売り上げ金を使い込むほどにのめり込んでいたことが判明したときには、すでに状況は破滅的だった。ついに我が家から完全にお金が尽き、借金だけが残ると、8年間生活を共にしていた内縁の男性はそれを境に、どこかに姿を消してしまったのだ。
私にとっては、進学を控える大切な時期の破産でもあり、不安と絶望感に打ちひしがれる出来事だった。ところが不思議なことに、心のどこかには安堵に近い感覚もあった。というのも、内縁の男性がいなくなったことで、失われた8年が戻って来ると思ったのだ。この8年間、いつも男性が母親と一緒におり、私達は、母に話しかける事にも遠慮がちで、本心で心を打ち明けて話す機会がほとんどなくなっていた。親子の間に大きな溝ができてしまった8年だったが、男性がいなくなったことで、また昔のように母親との親密な関係が回復すると思った。
ところが現実はそう甘くはなかった。今度は、母の精神が崩壊したのだ。今まで内縁の男性に依存しきっていた母は、彼に裏切られ、見捨てられた心の痛みからアルコールに逃げた。この時期、母の精神状態は急激に不安定になり、分裂症を発症したのだ。まるで幼い少女のように振る舞ったかと思えば、幻聴や幻覚に苛まれたりと、一気に精神が病んでいった。
新転地での新しい生活に夢見た希望は、わずか3年を待たずに潰えてしまったのだ。コンビニエンスストアを廃業し、家を失い、収入は完全に絶たれたのである。
私たちは、同じ市内の、風呂なし二部屋の古いアパートに、一家5人で移り住んだ。長男と次女は、当時すでに家を出て東京で自立していたので、それを除いた母と私、3女の妹、そして結婚に失敗して出戻ってきた長女と彼女の0歳の娘、この5人で、鮨詰めのようなアパート暮らしが始まった。私が高校3年生になるころには、家ばかりか全てを失い、生活保護を受けなければならないところまで落ちぶれた。それでも、当時まだ信者ではなかった私たちが、主の摂理的な深い哀れみを経験することになる。 
母と内縁の男性が始めたコンビニエンスストアは、ヤマザキデイリーストアのフランチャイズだった。男性が姿を消し、コンビニ店の廃業が決まると、デイリーストアの本部と残務処理の話し合いをしなければならなくなった。ところが、デイリーストアの本部では、店の資金の流れに不正があることをすでに掴んでおり、密かに内偵調査をしていたのだ。その結果、母と内縁の男がパチンコ店で600万円もの資金を使い込んでいたことが判明した。通常なら、刑事告発されてもおかしくない案件なのだが、なんとヤマザキ側は、私たちが置かれている状況を勘案して、刑事告発をしないばかりか、その債務を全て赦免してくれたのである。実はヤマザキ製パンがキリスト教の影響の強い会社だということがわかったのは、私たち家族が信者になって5、6年たった時だった。もしあの時、刑事告発され、600万円の借金が残ったなら、今とは全く違った人生になっていたかもしれない。このような、あり得ないほどの寛大な措置が取られたのは、ヤマザキ製パンの信仰的背景と全く無関係だったとは思えない。いずれにしても、寛大な配慮をいただいたヤマザキ製パンには、何と感謝を申し述べて良いのか言葉に言い表せない。
見えざる神の手は、ここにもご介在くださり、大きな痛手にならないようにと守ってくださったのだ。

さて、話は戻るが、母の病状は悪化し、精神科に処方された様々な安定剤を1日に数十錠も飲むようになった。そのようにして、ようやく幻聴や幻覚が抑えられたのだが、結局それは治療ではなく、感情や思考を抑制するものに過ぎない。薬の影響は母を無気力な廃人のように変えただけだ。そのような最悪な状況に、結婚生活に失敗した長女が、0歳の嬰児(えいじ)を連れて戻って来た。
実はこの長女が、我が家で初めてキリスト教会に通い始めた人物なのである。とはいっても、教会に通い始めた当時の彼女は、正しい信仰を持っていたわけではない。若くしての結婚とその失敗を経験し、次から次へと押し寄せる人生の荒波に揉まれ、長女も彼女なりに救いを求めていたのだと思う。その結果彼女は、宗教的なものに解決を見出そうとした。ただし、当時は正しい知識がなく、長女はキリスト教会に通うかたわら、真如苑などの新興宗教にも通っていた。多くの宗教を信仰すれば、その分多くのご利益があるだろうと考えていたのだ。実は、この長女がキリスト教会に通うきっかけとなったのは、地元の観光ホテルでの牧師との出会いだ。離婚した彼女は生活のために、そのホテルでアルバイトをしていたのだが、その牧師もまた、貧しい開拓教会を支えるため、同じホテルでナイトフロントのアルバイトをしていた。これは私たちが信者になった後にわかった話だが、このとき牧師は「あの娘に声をかけなさい」という、ご聖霊の明確な呼びかけを受けて長女に名刺を渡したそうだ。牧師はこの時、長女の後ろ姿に、はっきりと十字架を見たという。
 一方、長女としては、離婚した配偶者との間で、養育費の問題が生じたため、この牧師が法律関係に通じていると聞いて、養育費の法的問題を解決するために、何気なく教会を訪ねるようになった。いずれにしても、これは救われた後からわかったことだが、私たちは、明確に主の憐れみの御目にとまり、牧師の伝道を通して、主の憐れみの御座に呼ばれたのである。
さて、一方私は、当時活動こそしていなかったものの、創価学会を真理として信じていたので、姉が創価学会以外の宗教に関わることを快く思っていなかった。そればかりか、機会さえあれば、彼女が他宗教に行くのを、なんとか止めさせたいとすら考えていた。そしてそのチャンスが1992年、私が高校3年の秋口に訪れたのである。


【いざ、はじめての教会へ!】
ある日、長女の運転で私と母、妹、長女の子供の5人で外出した帰り道のことだ。当時、長女の啓子が通い始めていた教会の近くを通りかかり、彼女がつぶやくように言った。「啓子の通っている教会、この近くにあるんだよね」。この言葉に反応したのが、いつも安定剤の影響で朦朧(もうろう)としている母だった。
「啓子のその教会に行ってみようよ」
それを聞いて私は、母の言葉に耳を疑った。というのも、30年来の創価学会信者の母が、しかも幼少の頃から私たちにキリスト教こそは邪教だと言い聞かせてきたその張本人の口から「教会に行こうよ」などと聞くとは、全く想像もしなかったのだ。これはいったい何事かと思った。ところが私は、姉をたぶらかしている神父に抗議をする千載一遇のチャンスだと思い、その時の母の言葉に反対しなかった。当時の私は、神父と牧師の違いもわからぬほど無知だったのである。
車は向きを変え、教会に向かうことになった。未舗装の険しい山道を走破することおよそ5分、山の中にあるその教会は現れた。私が、人生で初めて訪れたキリスト教会は、まるで掘立(ほったて)小屋のような廃材で組まれた教会だった。車で近づくと、ちょうど牧師が外で作業をしていて、笑顔で手を振りながら、私たちを迎えてくれた。私たちは、牧師の手引きで、教会内に招かれた。聞くと、この会堂は牧師が一から廃材で組んだ手作りの会堂だという。一般にイメージするステンドグラスや三角屋根の教会とはまるで違うものだった。
しかし、特殊な教会堂の成り立ちの話はそこそこにして、私は間髪おかず、最初からトップギアで本題に入った。自分の持てる浅薄な知識を総動員して、無知な高校生が、キリスト教に対する批判の集中砲火を浴びせたのだ。今となっては、何を話したのかよく覚えていない。しかし、その時の牧師は、ニコニコと優しい笑みをたたえながら、若造の戯言(ざれごと)を、ひたすら静かに聴いてくれたのだ。全弾撃ち尽くして言葉が途切れた私に、牧師はおもむろに祈りを申し出た。「ご家族皆さんのためにお祈りさせていただいていいでしょうか」と。

【牧師の祈り、妹の涙】
生意気な若造の私はこの申し出を断ってもいいはずだったが、この時はそうはせず、家族全員のため祈っていただくことになった。この時の祈りの申し出をどういうわけか断らなかったこと、神の恵みはこんな些細な選択にも働く。次の瞬間、私はそれをを思い知ることになる。牧師は私たち家族全員のために、一人ずつ順番に、肩に手を置いて祈ってくれた。どんな言葉で祈ったのか、今となっては覚えていない。しかし次のことは決して忘れない。全員のための祈りが終わって、お互いの顔を見合わせたとき、当時中学2年生で、5歳年下の妹の綾子の目から涙が流れていた。不思議に思った私は妹に聞いた。「お前、何で泣いているの?」。すると妹は「いや、嬉しいわけでも悲しいわけでもないのだけど、なんだか心に清らかな風が吹いているようで、自分でもなぜ泣いているのかわからない」と言う。私たちがそんな会話をしていると、牧師が静かに言葉を挟んだ。「それは聖霊様です」。私は大きなショックを受けた。というのも、創価学会信者の家庭に生まれ、仏壇に向かって正座をして何時間も題目を唱えることがあったが、今目の前に起きているような出来事を、私は今まで一度も経験したことがない。 眼前で自分の身内の妹が、神の霊に触れられ涙を流しているのだ。私の思いに、「ひょっとしたらこの神父(当時は神父だと思っていた)の言っている神様って、本当に実在しているのだろうか」とよぎった。ささくれだった私のかたくなな心に、ほんの少しばかりの光が差したのだ。
ここまで再三書いてきたように、当時の私は、自分の落ち度と関係のない要因で転落し続ける人生にほとほと疲れていた。「神も仏もあったものか!」と、本心では行き場のない怒りや葛藤を抱えていたのである。そんな私の目の前に「ひょっとしたら、神様っているのかもしれない」という、ささやかな可能性が開かれた。しかもこの神は、そんじょそこらにいる全く現実味のない(例えば七福神のような)神々ではなく、全知全能にして全ての創造者、創り主、第一原因者、無限にして見えざる唯一の神だ。もちろん、当時の私には、そのような明確な神概念はなかったが、もし神がいるなら、「唯一にして絶対的な何かだろう」くらいのイメージはあった。 そんな神の存在が今、リアリティを持って眼前の妹に働いている。これに対して、実は私の本心には、何か胸踊る、かすかな期待感が芽生えていた。
父を失ってからの10年は、まるで絵に描いたような転落人生の10年だった。それからというもの、絶叫に近い叫びが、いつも私の心の中にはあった。強いて言葉にするなら、「くそっ! どうなってんだよ! おもしろくねぇ! なんでいつもこうなるんだよ! くそがぁ!」と、やり場のない怒りをぶつけていたのだ。当時の私には、それを言語化するすべがなかったが、今はそれがなんであったのかわかるような気がする。私の心にあった渇きと叫びとは、実は創造主に対するものだったのだ。しかもそれは相当に深刻かつ切実だった。そんな私の目の前に、まるで計ったかのようなタイミングで、神の存在を予感させる出来事が起きたのである。それまでの人生で「神がいる」などと真剣な呼びかけを受けたことは一度もなかった。目の前に起きている「神がいる」と思わせる現実的な可能性は、人生の答えを求めて狂犬のようになっていた私の魂には、良き知らせ以外の何者でもなかった。その可能性を目の前に、私の魂は「そんな神がいるのなら知りたい!」と叫んでいた。もちろん、だからといって180度すぐに転じて信じるほど単純ではなかった。そこで私は「もし、神父さんの言う神様が実在するなら、私自身で祈ってみます。生きている神様なら、神父さんに説明されなくても、私の祈りに直接的に答えることができるはずですよね。もし祈った結果、神様がいると分かれば、また教会に来るかもしれませんし、何の答えもなければ、おそらく今後二度と教会に来ることは無いと思います」と啖呵を切って立ち去ったのだ。表面的には敵対心をむき出しにしていた私だが、本心では、ある種の期待感に胸躍っていた。滑り落ちる人生の狭間で、「神がいるかもしれない!」という期待感に、である。

【いざ祈らん、だがしかし…】
家に帰ったその日から、私は期待を込めて意識的に祈ることを開始した。おおむねこんな祈りだったと思う。
「神様、私はお金持ちになりたいです。大きな家にも住みたいです。綺麗なお嫁さんもほしいです。世界で活躍できるビックな人物になりたいです。でもあなたがいるのかいないのか私にはわかりません。もしあなたが本当にいるのなら、あなたがいることを教えてください。あなたを信じることができるように助けてください」と。
今思えばまったくデタラメな祈りだったが、自分なりに真剣に求めて祈っていたと思う。「イエス」という固有名詞を出して祈ることには抵抗があったので、この当時はただ「神様」とだけ呼びかけていた。キリスト教に対する抵抗感があったのだが、もっというなら「イエス」という人物に対する抵抗感だった。この時にはまだこの抵抗感を拭いきれていなかったのだ。
祈りを開始してから数ヶ月、1日に数回、思い出しては祈っていたが、ことさら何かが起きたわけでも変化があったわけでもなかった。それで私の祈りは徐々におろそかになってしまった。そんなある日曜日の出来事だ。私は、あの日の初めての教会訪問以来、一度も教会に行っていなかったのだが、実は、母と姉、妹たちは、その後、日曜日の夕礼拝に参加するようになっていた。しかしこれは、まったくの純粋な信仰心によって参加していたかといえばそうでもなかった。当時の夕拝は教会員の経営するペンションで捧げられていたため、礼拝が終わると焼き立てのパンや夕食が振舞われたのだ。純粋な信仰心だけではなかったというのはそういうわけだ。いずれにしても、その日曜日、姉や妹に「礼拝後に手作りのパンや美味しい食事も出るから、博もたまには来たらいいよ」と誘われたので、私はまんまと餌に釣られたのである。何気なく、私はその夜の夕拝に参加したのだが、今思い出そうとしても牧師の説教は何も覚えていない。ただペンションで振舞われた手作りパンやエビチリがとてもおいしかったということだけは忘れずに覚えている。そしてもう一つ印象的に覚えているのは、ペンションオーナーの旦那さんの祈りだ。おそらく食前の祈りだったと思うのだが祈りの内容は覚えていない。しかし、私たちが教会に来たことを心から喜んでいるような祈りだったと思う。しかも、このとき旦那さんは、泣きながら祈っておられた。成人の男性が泣いている姿など、そうそう見ることはない。どうやら彼は、私たちのために涙を流して祈っているようだった。親しい家族や友人のために涙するならまだしも、彼は、見ず知らずの他人に等しい私たちのために泣いて祈っていたのだ。あの不思議な光景と感覚は、決して忘れ得るものではない。

【我が家の使徒の働きニ章?】
さて礼拝が終わり、すでに夜の9時も回っていただろうか、私たちは住まいの貧しいアパートに帰ってきた。姉の啓子と妹の綾子が先に到着しており、私は一歩遅れてアパートに入った。すると啓子が怪訝(けげん)そうに私に話しかけてきた。彼女は「綾子の様子がおかしい」と言う。
妹の様子は一目見て心ここに在らずというのがわかった。しかし、次の瞬間、彼女の口から聞いたこともない言葉が発せられたのだ。

「私は始めであり、終わりである。世界の始まる前からあなたたちのことを知っている」

妹が語っていることの正確な意味はわからなかったが、彼女の口を通して、神的な何者かが語っているということだけはすぐにわかった。というよりも、右も左もわからぬはずの私たちだったが、「えっ?これイエス様?」と、互いに顔を見合わせた。とにかく驚きながら牧師に電話して起きていることを伝えると、牧師は使徒の働きの2章を示してくれた。そこに書いてあるのは、ペテロが引用したヨエル書の一節だ。

神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。(使徒の働き2章17~18節)

 牧師によると、今は終わりのときで、世界中で神の霊が顕著に注がれていると言うのだ。この箇所に書いてある通り、聖書の知識などほとんど皆無の妹に神の霊がくだり、預言を語り出したのだ。主イエスご自身が私たちに語られているのだと思うと、私は大きな感動に包まれた。神の子が、こんなに貧しい我が家を訪れてくださったように感じたからだ。 当時、妹を通して語られる預言が、1週間くらい、毎日のように続いた。その出来事を通して、消えかかっていた私の祈りにも、再び火が入った。その出来事以来、私は、真剣に祈るようになった。「イエス様、妹を通してではなく、私自身が直接あなたを知りたいのです!」と。「イエス」という固有名詞を出して祈ることをあれほど意識的に避けていたのに、そんなことはまるでなかったかのように、私は、その出来事以来積極的に「イエス様」と呼びかけるようになった。私たち家族は、欠かさず教会に行くようにもなり、聖書も読むようになった。
 そして、その出来事が起きて、礼拝にも積極的に集うようになり、2ヶ月ほどたってからだろうか。1993年5月3日の真夜中、ことは起きたのだ。

【新しく生まれる】
前日の5月2日の日曜日、いつものように夕礼拝を終えて教会から帰宅した私は、自分の寝床に就いた。寝床といっても、4畳半と6畳のニ部屋しかない古いアパートだ。そこに5人が所狭しと住んでいる。私の寝る場所は畳の上にはなく、ソファーが私のベッドだった。そのソファーで横になりながら、私はいつもの通り、胸の前で手を組み祈っていた。
 祈り始めて間もなく、次のような微かな感情がふっと湧き上がった。それはほんの小さな懺悔(ざんげ)の思いだ。
「ああ、イエス様は今に至るまで、ずっと私を愛し、心配し、招いておられたのに、そんなイエス様の心もわからず無視して、自分は身勝手に生きてきたんだなぁ」と、些細な思いがよぎった。

 そんな小さな懺悔は、はじめ暗がりに灯る小さなロウソクの火のような、微細な感情の変化に過ぎなかった。ところがその感情は見る見る大きくなり、雪山の斜面を転がる雪だるまのようにどんどん大きくなっていった。ついにその懺悔の思いはとめどもない洪水のようになって、私に押し迫り、考えられないような悔悛(かいしゅん)の涙をもたらした。何時間たっただろうか、時刻はすでに夜中になっていた。私は他の家族を起こしてはいけないと思い必死に声を抑えながら咽び泣いていたが、どうあっても溢れる涙をとどめることができない。「主は、どれほど私のゆえに心痛んでくださったことか・・・ごめんなさい、ごめんなさい、イエス様」と。

 私は、今まで数々の悪さをして、学校では謹慎処分を受けたり、果ては家庭裁判所で裁判官の前に立たされたりと、そういう経験もある。そのような場合、教員や裁判官の前で、深刻な顔つきをして反省はしていた。しかし心のどこかでは、反省を装っている自分に気がつく。もちろん意識的に装っているわけではないのだが、自分を守りたい、早くこの場から逃れたい、という無意識の本能が働くのだ。しかし、その夜に経験した悔悛の思いは、信じられないほど純粋なものだった。時が経つのも忘れ、くしゃくしゃに泣き崩れながらの悔い改めは、おそらく数時間は続いたと思う。時刻はすでに真夜中になっていた。ところが、夜中のある時点で、その悲しみの祈りは、まるでビックバンでも起きたかのような、あるいは核分裂でも起きたかのような、凄まじく爆発するような喜びに変わったのだ!

「赦された!私の全ての罪は赦された!イエス様があの十字架で私の身代わりに死んでくださったことで、私の全ての罪は完全に赦された!」

キリストの十字架の愛が、手で触れるかと思うほど鮮やかに、体験的に、私の心に入ってきた。さっきまで己の罪深さを悔いてわんわん泣いていたのに、今度は爆発的な喜びと嬉しさのあまりわんわん泣いているのだから、全くせわしないことである。それまでの18年の人生で、私は全く経験したことがない、次元の違う喜びに、ただただ咽び泣いていた。その喜びの万分の一も言い表すこともできない自分の語彙の貧しさを呪いたい気持ちだ。この天的な喜びは、全くもって、私のうちに宿る神のご聖霊によってもたらされたもの以外の何者でもない。私は夜が明け染めるまで、この救いの歓喜を噛み締め、喜び踊っていたのだ(実際、本当に踊っていた!)。
私はその時、あるひとつの事を思い出していた。それは今まで理解できなかったことだ。しかしこの経験を通してまるで点と線がつながるようにはっきりと理解できたように思った。つまりそれは、歴史の授業で学んだキリスト教迫害についてである。 この日本でも、切支丹(きりしたん)たちが主を否まず、下は童子から上は老人に至るまで、命を惜しまず信仰を全うした人々がいた。授業でそれを知った当時の私は、「自分のためにこその宗教なのに、どうしてその宗教のために命を捨てることができるのか」と、信仰のために命を捨てるという感覚がまったく理解できなかった。彼らの命を捨てる姿は、むしろ不気味にさえ思えた。ところが今、生けるキリストの愛や喜びが、大波のように私の心に打ち寄せているのを感じる時、「ああ、そうか、キリスト教にはこれがあったのか! 生きているイエス・キリストとの命の交わり! 現実的なキリストとの生きた関係!切支丹たちは死をも恐れず、喜びながら命を捧げたのはこのためか!」
 過去の出来事と自分が今経験している喜びとが重なり腹に落ちたのである。

【驚きと喜びの波状攻撃】
 明け方ころ、これはすごい体験だと思い、私は記録に書き留めるべきだと感じて居間の卓上でペンを走らせた。5月の未明というのはけっこう冷えるものだ。私が書いていた角卓(かくたく)というのは、電気コタツの卓だったのだが、書いていると、はっきり認識できるほど足がポカポカと暖かくなってきた。しかし、すでに5月だったため、コタツ布団も電源コードも取り払われていた。あまりの暖かさに、私は思わず角卓の下を覗き込んで電源が入っているのかと思って確認したほどだ。もちろん電気は入っていない。あまりにも不思議で驚きと喜びでどうかなってしまうのではないかと思うほどだった。ほとばしるような聖霊の満たしは、爆発的な喜びのみならず、実際的な熱をもって私に臨んだのだ。驚きの波状攻撃はこれだけでは止まらない。人々が寝静まっている未明であるのにもかかわらず、熟睡していたはずの妹の綾子がスクッと起き上がってこう言った「今、聖霊様が『一緒に喜びなさい』って言った」。驚きと喜びのオンパレードである。私はその夜に自分に起きたことを涙ながらに妹に話して、共に喜び、感謝の祈りを捧げたのだ。冗談のように思うかもしれないが、話はそれだけでは終わらない。
朝になるころ、劇的な出来事を通してキリストの愛に目覚めた私は、自分でも笑ってしまうくらい単純なところがあり、普段そんなことはしたことはないのに、「よし!愛の実践だ!」と言わんばかりに、そろそろ起きてくる家族のために朝食を作ろうと思い立った。それでパンを焼いてコーヒーを準備しようとしたのだが、コーヒーを切らしていたので最寄の自動販売機に買いに走った。コインを入れてコーヒーを買うと、実はその自動販売機が電子式の当たりくじ付きで、それがみごとに当たってしまったのである。当たったおかげでコーヒーをもう1本もらうことができた。もちろんある人にとっては、たった1本の缶コーヒーであり、それは偶然に過ぎないと言うかもしれない。しかし、ここ数ヶ月の間に起きている一連の出来事、そして昨晩から自分に起きている出来事の流れで起きたそれは、私にとってはたった1本の缶コーヒーなどというものではない。その1本の缶コーヒーは、塵にも等しい私のような者への優しい神の語りかけであったのだ。目に見えぬ神が、まるで見えるかのようにご自分を現し、この地球上で最も貧しく最も卑しい私を訪れ、「博、お前が今喜んでいることを、このわたしも一緒に喜んでいるぞ」と、その1本の缶コーヒーは、神の心を代弁しているかのように思えてならなかったのである。この日、私が経験した喜びは、今まで味わったことのない無上の歓喜であったと同時に、極めて畏れ多いことでもあった。当時の世界人口は56億人程度だっただろうか。そんなに多くの人間がいるのに、宇宙の創造者が、取り柄も秀でたものも何もない世の中の底辺にも等しい私を、まるで他に人間がいないかのように訪れてくださったと感じたからだ。まったく意味がわからなかった。繰り返すが、それは本当に畏れ多く「驚くばかりの恵み」以外の何者でもない。これを書く今も、あの日と全く変わらない喜びが溢れ、とめどなく涙が頬(ほお)を伝うのだ。あの日、私は、聖書が言うように「新しく生まれた」のである。

【天地の始まる前から】
 パウロは、エペソ書で次のように言っている。
すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。(エペソ人への手紙1章4節)

 私たちの家族が、キリストとの出会いに至るまでに、3つの転機を通過したことについて話した。主キリストを信じた後、それらの出来事を振り返る時、当初は悲しいことだったが、神がそれらを鮮やかに働かせ、私たちをご自身に導かれたことがよくわかる。私の人生に対する神の支配は、私がキリストに見向きもせず、返って足蹴にしていた時代にも及んでおり、それはまるで、天地が作られる前から、神の選びの計画があったことを確信させるものだった。

【転機その1、父の死と内縁の男の登場】
 まず第1に、父の死と内縁の男の登場だ。私の父は、一般の創価学会員よりも、学会への依存度が高かったといえる。自営業の父は、ほぼ100%学会関係者からの依頼で仕事を受けていた。 個人宅にしても、幼稚園や保養所などの施設にしても、それらの建物の塗装の依頼は、ほぼ全て間違いなく学会関係者からのものだった。創価学会員が芸能界に多いことはよく知られている。それは学会の繋がりを通して仕事がくるからだ。もちろん彼らに純粋な信心がないとは言わないが、芸能人が学会員であり続ける大きな動機の一つは、学会員であることが収入に直結しているためだ。私の父の場合も、熱心な会員ではあったが、学会なしには生活が成り立たなかった。父が学会に強く依存していたことは紛れもない事実だ。良くも悪くも、これが創価学会の強さであり、この手の連帯によって学会員は互いに縛り合っている。悲しい父の急逝だったが、もし父が存命だったら、創価学会と手を切ることはかなり難しかっただろう。もちろん神が、私たちの父の死を積極的にもたらしたとは思わないが、神は、私たち家族をご自身の救いの網に捉えるため、父の死を「楔(くさび)」の一つとして機能させたのだと思う。その楔とは、私たち家族を創価学会から引き離すための楔だ。だが神が打った楔はそれだけではない。
 父の死の数ヶ月後、内縁関係になる男性が現れる前の話だが、母は、父が遺した土地に家を建てた。その家には、30畳近くもある広い仏間があった。そんなに不必要に広い仏間の設計は、もちろん父の意向でも母の意向でもない。父は生前、家を建てるために図面を作成していたが、そんなに広い仏間は想定していなかった。つまりその広大な仏間というのは学会の意向なのだ。広い仏間は「座談会」とよばれる創価学会の在家(ざいけ)の集会を開くのに適した作りだ。つまり、父の死後に建ったこの家は、見事な「座談会」仕様だったわけである。現に家を建てた直後は、我が家で座談会が頻繁に行われていた。つまり我が家は、学会にとって都合のいい集会所となりつつあったのだ。学会との付き合いを続ける限り、「信心のためだ」という名目で、父の残した財産を、学会や組織のためにそのように使うよう要求されることは避けられなかっただろう。現に我が家の仏間はそれを立証しているし、広い仏間に見合うようにと、500万円の仏壇に新調させられたのだ。最近、幹部クラスだった元学会員のタレントYouTuberが盛んに発信しているように、学会によって身ぐるみ剥がされた会員や元会員は少なくない 。
 少し話はそれるが、キリスト者の献金と学会員の献金の決定的な違いと問題点は何かといえば、それは額の多少ではない。キリスト者でも大胆に捧げる人は珍しくない。それではキリスト者の献金の大きな特徴とは何か。それは、徹頭徹尾、神と個人との関係における自発性に基づく献金なのである。教会や牧師から、必要以上に献金のプレッシャーを受けるなら、その教会は健全な教会とは言えない。創価学会は、その手の献金プレッシャーを、多勢に無勢の状況で、学会員同士が掛け合うのだ(ネット時代の現在は、学会もあまり無茶はできないようだが)。そのように突きつけられる要求を、母が跳ね除けることができたとは到底思えない。遅かれ早かれ、学会組織の中で、骨までしゃぶられる状況になることは避けられなかっただろう。

 そこで登場したのが、この内縁の男性だ。実はこの男性の背景も創価学会員だったのだが、彼の場合、学会員でも少し変わり種だった。彼は、組織に依存しない独自の哲学を有する学会員で「教えは心に刻むものだ。組織は関係ない」という独特の考え方を持っていた。その考えの影響で、母もその男も、次第に創価学会の集まりから疎遠になっていった。男性の純粋な宗教心がそれをさせたのか、あるいは学会員からの干渉を排除して母の資産を独り占めしたい下心があったのか、今となっては定かではない。いずれにしても、当時は脱するのがかなり困難と言われた「創価学会の組織的縛り」から距離を取ることができたことだけは確かだと思う。そして、この男性の登場も「楔」として機能したのだ。この男性の楔としての役割はそれだけではない。私たちを神に近づけた2つ目、3つ目の転機である、転居と破産でも彼はその役割を果たす。

【転機その2、初恋と愛郷からの引っ越し】
 第2の転機である生まれ故郷からの転居は、男性と母のギャンブルによる浪費によってもたらされた。男性が我が家に居着くようになった当初の動機は「5人の育ち盛りの子供を抱えた未亡人を助けたい」という善意も少なからずあったと思う。詐欺師のように悪質な者なら、大金を持ち逃げする機会はいくらでもあったはずだが、彼はそうしなかった。彼の場合、何かしらのビジネスを起こしてお金を稼ぎたいという気持ちはあったようだが、いかんせん決定的にビジネスに向かない人間だったのだ。
 当時は、バブル期真っ盛りで、どんなに商才のない者でも荒稼ぎしていた時代だ。繰り返すが、銀行に1億円の預金があれば原資は一切取り崩さず、年間500万円の不労所得が得られた。景気のいい時代だった。当時、私たちの家にあった総資産は、不動産を合わせて、おそらく2億円はくだらなかったと思う。誰もが稼ぎまくっていた時代に、私たちの家ではわずか5年のうちに、総資産のほとんどがパチンコに消えていった。そのため私たちの家族は数百キロも離れた田舎町に転居することを余儀なくされた。しかしこのことは、またしても私たち家族と創価学会との間に物理的な距離を置く楔となったのだ。引っ越したあとは、創価学会との繋がりは皆無になった。
 またこの転居は、私にとっては内なる渇きを引き起こすきっかけとなる。転校後、私は人間関係につまずき、内向的になっていった。しかしそれは、私の内側に、人生の問題を解決する絶対的な何かを求める渇きをもたらしたのだ。もし私があのまま充実した学生生活を送り、楽しい人間関係の中に置かれていたなら、過剰なキリスト教アレルギーを持つ私である。福音に心を開くことなど、決してなかっただろう。また、下町の悪ガキの中で育った私が、羽目を外して際限なく悪い道に堕ちて行ったであろうことも十分あり得たと思う。

【転機その3、破産と母の発病】
 そして私たちをキリストに導いた第3の転機は、転居先での破産だ。これによって私たちは、人間的な希望が完全に絶たれた。逆を言えば、それによって私たちの心は、福音の種が蒔かれるために、耕され整えられた状態になったのだと思う。財産相続のために、身内同士で血みどろの争いをする人々は少なくない。罪人街道まっしぐらだった我が家に、もし多少の遺産でも残るなら、命に関わるような骨肉の争いになったに違いない。しかし、そもそも財産がなければそうはならないのだ。 私が新生(ボーン・アゲイン)したのと同じ時期に、家族全員が集中的に新生して救われた。別居していた長男と次女は、数ヶ月遅れて救われるのだが、父の遺した財産がなくなって、人間的な希望が失われたことは、家族全員が福音に希望を置くためには良いことだった。また当時、信じた後すぐに、牧師の指導のもと仏壇を燃やしたことも、家族が次々に救われたことに大きな霊的影響を与えたと思う。仏壇の焼却は、東京で自立していた長男や姉の了解をとらずに敢行したのだが、我が家では、兄はとりわけ熱心な創価学会信者だったうえ、人を病院送りにするような凶暴な兄でもあった。そのため、仏壇の焼却は、私たちにとって大きなチャレンジだった。私は当時、使徒の働きを読んでおり、伝道するたびに迫害に会う使徒たちや弟子たちの姿に勇気が与えられ、信仰によって仏壇を焼却すると決めたのだ。良く言えば恐れ知らずのフレッシュな信仰、悪く言えば無鉄砲だが、結果的にはそれが良かったと思う。ひどい暴力を受け、大怪我をさせられることも辞さない覚悟で焼却したが、結局暴力は受けず、長男と次女もあっさり救われたのだ。
そして破産によって生じた貧しさは、救われて間もない私たちが、「互いに愛し合う」ことを学び、実践する機会にもなった。私自身は進学を諦め、高校卒業後、家族を支えるために働き始めた。平日の昼は、8時から5時までの工場勤務をこなし、そのあと夜の7時から夜中の2時までを、地元の観光ホテルで布団の上げ下げや皿洗いなどをし、家に帰って就寝するのは毎日午前3時を回っていた。土日には、競輪場の警備員のアルバイトをし、それにいつものホテルの仕事が加わる。当時、これらの掛け持ちの仕事で1ヶ月50万円ほどの収入を得ていたが、家族を支えるために全額を家計に入れた。これらの全く時間的な余裕のない合間を縫って、私は教会の夕拝に出席したのだ。そのような生活が2、3年は続いたと思う。当時の私は、最も経済的に稼いでいたのにもかかわらず、自分自身で自由に使えるお金はなく、最も貧しい生活を送っていた。しかし今振り返ると、本当に充実した幸せな日々だったと思う。何が私にそれをさせたのかと言えば、それは「貧しさ」であり、「互いに愛し合いなさい」と言われた主イエスの教えだった。そして、その互いの愛は、母の癒しのための家族一丸の祈りを生み出した。

【貧しさの中にある恵みと母の癒し】
分裂症を発症し、1日に数十錠の安定剤を飲まなければならない母は、生ける屍のような無気力そのものだった。安定剤は、感情のたかぶりや、そう状態を抑えることはできても治療はできない。そこで私たち家族は、意を決して信仰に立ち、薬に頼ることをやめて母のために祈ることに決めた。その祈りの結果、母はなんと数ヶ月のうちに完全に癒されたのだ。母の癒しは劇的に訪れたわけではない。薬をやめて、祈りを始めてから、程なくしてのある日の出来事が起点となって始まった。ある日、母は、「お母ちゃん今日、イエス様見たんだよ。台所の格子窓の外に立っていた」と言ったのだ。 当初は、薬の影響が残っているのか、あるいは精神的なものなのか判断がつきかねたが、その日を境に母はみるみる回復していった。その回復を目の当たりにして、母に現れた幻は本当にイエス様だったと家族一同確信するようになったのだ。いずれにしても、母は数ヶ月後にはパートの仕事ができるほどに元気になり、完全に癒やされた。これは救われて数年後の後日談なのだが、長女はその後、看護学校に入学し直し看護師になった。彼女が病院で勤務するようになり、臨床の現場でわかったことだが、分裂症や統合失調症の類が発症して数十年も改善のない患者はざらにいるという。結局、この手の心の病は投薬によって抑えることはできても、決して治療はできないそうだ。しかし主は、母を泥沼から引き上げ癒してくださった。私たちは主の御名を高らかに讃えたのだ。もし私たちが豊かさの中にいたなら、祈りよりも安直に医療に頼っていたかもしれない。私たちが置かれた貧しさは、神の時にかなったものだったとつくづく思う。私たちは、貧しさの中で、本当に大切なことを学んだのだ。
「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。(箴言17章1節)」とある言葉は、まさしく真実であることを私たちは体験した。


【執拗なまでの神の愛】
  さて、主イエスを信じて新しく生まれたあと、聖書を読むたび、私は喜びの涙が溢れた。その中で、特に心に響いた御言葉がこれだ。

あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。 (ヨハネの福音書15章16節a)

私が主を選んだのではなく、主が私を選んでくださった。主が選び、私たちをご自身のもとに引き寄せる方法というのは、多くの場合、その時には喜ばしくないものだ。
 親ガチャという言葉を知っていると思う。これは、ハンドルをひねるとランダムに出てくる、当たり外れのある球状のカプセルのガチャガチャから取られた言葉だ。つまりこの言葉の意味は、自分が生まれる親には当たり外れがあり、誰もどんな親元に生まれるのかを選べないという意味だ。私が子供の当時、親ガチャという言葉はなかったが、その価値観を当てはめるなら、父を失ってからの私は、自分は最悪の親ガチャのもとにあったと信じて疑わなかった。特に母と内縁の男性との組み合わせは最悪だった。私は転げ落ちる人生の狭間で、あらゆるものを憎み、恨み、さげすんで、いつまでたっても決して変えることのできない過去を引きずっていた。
 しかし、キリストを信じたとき、あんなに苦しく恨めしく思っていた歩みだが、そこを通ったことが本当に良かったと心の底から思えた。これは、思い込みでも、諦めでも、痩せ我慢でもないし、積極的思考(ポジティブシンキング)などというテクニックでもない。私は、あんなに忌まわしいと思っていた自分の通ってきた道を本心から喜んだのだ。繰り返すが、これは「くよくよしても仕方ない。悩んでも仕方ない」という類(たぐい)の諦めでもなく、「万事塞翁が馬」程度の小手先の思考テクニックでもない。
「あの苦しみを通ったことが、本当に良かった」と、感涙に咽び純粋に喜んだ。なぜそう思えたのか。その理由こそは、まさに徹頭徹尾「キリスト」なのである。私は全てを失い、そして何にも代えがたい「キリスト」を得た。そう、このキリストこそは、あんなに恨めしく呪っていた全てのことを、躍り上がって喜び感謝できる唯一の理由なのだ。
使徒パウロは次のように言っている。
「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています…」ピリピ人への手紙3章7~8節

 世には宗教や教えと呼ばれるものが数多(あまた)ある。しかし、失ったことや悲しんだこと、奪われたことや苦しんだこと、これらマイナスと捉えられる出来事を、「考え方の切り替え」などという思考テクニックではなく、心底喜ぶことができる宗教や教えが他にあるだろうか。多くの宗教や成功哲学が、経済的豊かさや健康、病の癒し、恋愛成就、学問向上、安産祈願、子孫繁栄などを謳う。もちろんキリスト教も、これらの祝福を否定しないが、もしキリスト教がこれだけなら、もはやキリスト教はキリスト教ではない。キリスト教のキリスト教たる所以(ゆえん)は、「生けるキリスト」そのものにある。そして、我々キリスト者の平安と喜びの源泉は、信者のうちに住む生けるキリスト以外にはない。持ち物や地位、名誉、人間関係、あるいは健康さえも、私たちの喜びの真の源泉にはなりえないのだ。
私は自分が通ってきたあの悲しみの道を、全て受け入れ、それを感謝した。また、弱い人だが、母が私の母で本当に良かったと感謝している。母は最高の親ガチャだ。父が存命の間は、母は、父に仕え、家庭に仕え、良くやっていた。それがある日突然、育ち盛りの五人の子供を残して、一家の大黒柱に先立たれたのだ。泳いだことのない者が、いきなり台風の荒海に放り出されたに等しい。何の心の準備もなく夫に先立たれた不器用で世渡り下手の女性にとって、それがどれほど恐ろしく不安だったことだろう。それまでの20年、家庭の船長であった父のもと良くやっていた母が、突然舵取りを任されたのだ。人にはそれぞれ適性というものがある。母の場合、先頭に立って進んでいく適性ではない。正しい船長のもとで機能する適性だ。それが正しくない船長のもとで過ごした8年の航海と難破を経て、今や見事に、完全無欠の人生の船長のもとにたどり着いた。もしこの母の弱さがなかったら、私たち家族全員が、この大船長のもとに漂着することはなかっただろう。私たちの家庭が試練の嵐の只中にあったとき、私は何度母に暴言を吐いたか知れない。「なんでお母ちゃんが生きてて、お父ちゃんが死んだんだよ! 逆だったらよかったのに!」 キリストを信じた後、全てがわかり、私は涙して母にお詫びして言った。「お母ちゃんごめんな。俺なんにもわかっていなかったよ。お母ちゃんが生きてて本当によかった」と。もう一度言う。他の誰かにとってはそうでなくても、私にとっての母は、神が私たちに与えた最高の「親ガチャ」だ。
そして、父の死の後に来た内縁の男性も、まさに神様の絶妙なキャスティングだった。彼は、酒を飲んで暴力を振るったり、子供を虐待するようなタイプの人間ではなかった。新聞に載るような目を覆いたくなる虐待事件のほとんどが、連れ子のある女性とその連れ子とは血縁関係にない男性のカップルの間で起きている。我が家には、女児3人を含む5人の子供がいたことや、当時の家庭環境を考えるなら、女児への性的虐待や、保険金を掛けて子供1人を殺めるなどの事件に発展していたとしてもおかしくなかっただろう。この男性は、子供に一生涯のトラウマや傷を負わせるような悪人ではなかった。彼のしたことはことごとく我が家と学会との間の楔となり、私たちの財産だけをきれいに消し去っていった。絶妙な人選と配剤ではないか。
父の死と内縁の男の登場、散財と引っ越し、破産と母の発病と癒し、これら全てが、私たちを愛なる神のふところに追い込むための包囲網であり楔だったのだ。私たちは信じる前から、生まれる前から、世界の始まる前から、キリストの愛に包囲されていたのだ(2コリント5・14)。

「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16a)

あゝ、なんとしぶとく、なんと執拗なことだろう。私たちのような箸にも棒にも引っかからぬ者をも、決して諦めず、執拗に追いかけて離さない神の選び、神の愛とは。

【変化は内側から】
信者になった後、私はあんなに嫌いだった陸の孤島のような田舎町を愛するようになった。今でも私が住んだことのある地域で、あの町は最高の場所だったと思っている。私の住んでいた地域、人間関係、親、住まい、環境、過去、それら外側の事柄は何も変わっていないが、私はこれを「最高のガチャ」だと思っている。相変わらず貧しく、相変わらずの家族、相変わらずの田舎町、環境と外側は何も変わらなかったが、私はそれら全てを感謝し、愛するようになった。変わったものは何か。それは私自身だ。主イエスが私の人生の主となってくださったことにより、変化は私の内側からやってきた。変えられなければならなかったのは、環境や人間関係など、外側のことではなく、私自身だったのだ。この変革は、いつも内側から、つまり信者の内に住まわれるキリストから始まる。これは、内住の生けるキリストにしかできない御業だ。

私の内側には、30年前に信じた時と全く変わらない喜びが、今もこんこんと湧き続けている。全くもって驚異的なことだ。
多くの人々が趣味やレジャーに没頭する。ある者は楽器の演奏に凝るだろうか。釣りやキャンプ、自転車、スポーツ、芸事など、ほぼ無限に趣味や興味の範囲は広がる。そして、多くの人々がそれに「ハマる」のだ。ある人は、芸能人やアイドルに、我を忘れて熱狂したことがあるだろう。映画俳優やアニメキャラなどにも熱狂したかもしれない。しかし月日が過ぎると「なんであんなに熱狂していたのだろう」と、さめざめと振り返ることがある。喜びや熱狂はつかの間だ。多くのものが過ぎ去って行く。
 しかし、キリストを信じたことから始まる喜びは、決して古びることも、褪せることも、移ろうこともない。むしろその喜びは、日毎に深く、強く、大きく、鮮やかになる。なぜならその喜びは、信者の中に生きているキリストご自身から来るからだ。その喜びは、私たちの外側の出来事の何者にも左右されることも、奪われることもない。それは、貧しさ豊かさ、病や健康、順風と逆境、殉教や迫害、困難と苦難など、一切を超えて働く「我がすべてにますキリスト」から溢れ流れるものだからだ。あの愛すべき聖歌473番にある通りに。

貧しくあれども 喜び歌いて 住むやもめよ 
なにゆえこの家は 平和に満つるや 語り告げよ
「イェスは我の全てなれば イェスは我の全てなれば」


病の床にて 主の召したもうを待つ娘よ
なにゆえ望みに輝き微笑む 語り告げよ
「イェスは我の全てなれば イェスは我の全てなれば」


煙にむせびつ 炎に焼かれつ 殉教者たちの 
ひとりは叫びぬ 輝くかなたの栄え見つつ
「イェスは我の全てなりき イェスは我の全てなりき」


氷の閉ざす地 真砂(まさご)の焼くる地 宣教師は行く
苦しみ危うき 疫病(えやみ)を恐れで 御名のために
イェスは彼の全てなれば イェスは彼の全てなれば


険しき旅路に傷つき悩める世の人びと
救い主イェスの御声に従い 生きて仰げ
イェスはなれが 全てとならん イェスはなれが全てとならん

聖歌473番

【最後に、この証を通して最も伝えたいこと】
この証を通して私が伝えたいことは、決して奇跡自慢でも苦労自慢でもないことは強調したい。我が家に対する主イエスの特異とも言える奇跡的なアプローチは、むしろ、我が家が頑なだったからだと思う。主イエスが言われたように(ヨハネ20・29)、奇跡を見なくても御言葉だけで素直に信じることができる人のほうが幸いだ。しかし私たちの場合、創価学会員だった影響からか、最後の一押しとして、何かを見たり聞いたりしなければ、なかなか心が開かなかったのだと思う。つまり頑なだったのだ。これはちょうど、イスラム教徒が奇跡的に救われるケースに似ている。彼らもイスラムの習慣から、福音に対して、問答無用に頑なに心を閉ざしていることが多い。それで主は、幻や夢と言う方法で臨むのだ。奇跡を見なくても、信じることのできる人は幸いだ。
また、苦労自慢をしたいわけでもない。私たちなど比べ物にならないほど、大変な境遇から救われている者もいるし、未信者でも、キリストの力に頼らず、もっと大変な状況から立ち直っている者はごまんといる。私の証などは、そのような本当に厳しい状況にいる方々に比べれば、何も大変だったとは思わない。では私がこの証を通して最も伝えたいこととは何か。
私たちの家族は、救われる以前の混乱と叫び、罵り合いと暴力に満ちていた昔とはまったく比べ物にならないほど、今では、内なる平安と愛、喜びとに満ちた、本当に幸せな家族となった。それは、暮らしが良くなったからでも、持ち物が増えたからでも、家や車があるからでもない。只々一重に、キリストが我が家に来られたからだ。キリストが来られたことによって、我が家は本当に救われたのだ。この証を通して強調して伝えたいことは、まさにこれに尽きる。
もう何年も前、母がぽつりとしみじみ語った。「死別の悲しみほど辛いことはないけど、イエス様を信じて何がありがたいかって、みんなと必ず天国で再会できることだ」と。母のこの言葉は、真に救われきった魂の言葉だと思う。人は出会い、必ず別れが来る。しかし主イエスにある者は、その離別の寂しさと悲しみから、永遠に自由にされているのだ。しかも、愛する家族との永遠の離別から自由にされているのなら、こんなにありがたいことはない。

誰かがもし「あなたの人生で最も良かったことは何ですか」と聞くなら、私は今でも何の迷いも躊躇いもなく、すぐさまこう答えるだろう、「あの日、あの時、主イエスを拒まず、信じ受け入れたことです」と。


【痛い子万歳!】
それから、これは母が救われたあとの後日談だが、実は母は、福島県のプロテスタントのミッション系高校を卒業している。その高校では、毎週月曜日に、牧師が全校生徒に対して聖書の話をしてくれたそうだ。高校生当時の母は、その牧師の話は上の空で、内容はよく覚えていなかったそうだが、どういうわけかこの牧師の顔が、今までの人生の歩みの中で、たびたびチラリチラリと浮かんだそうだ。それは、創価学会員として30年勤め上げていた時でさえも、そうだったという。当時のミッション系の学校の教員たちは、洗礼を受けた信者が多かったはずだ。私が思うに、この学校では生徒のために祈っていたのではないかと想像する。もし母や我が家の救いに、遠い昔に祈られた彼らの祈りの影響があるのなら、祈りは時空を超えて、なお決して地に落ちないことを力強く物語っている。
私自身についても、自分が未信者だった学生時代を振り返るとき、あの先生や、あの学友は、もしかしたらクリスチャンだったのではないかと思い当たる人が数人いる。もしそうであるなら、私なら「同じクラスにいるあの『痛い子』の石野君が、イエス様に出会ったらいいのになぁ。この子には特にイエス様が必要だよ」と、ことさらに思ったのではないかと感じる。憐れみ深いキリスト信者の心情としては、あの危なっかしい子には、特に主の憐れみが必要だと願わずにはおれないだろう。あるいはクリスチャンホームの学友なら、「学校にこんな子がいるんだけど、彼にはイエス様が必要だと思う。お父さんお母さん、一緒に祈ってくれない」と、両親や家族に呼びかけて、祈ることもあったかもしれない。「痛い子だったがゆえに祈られた」、そう考えると「痛い子」もそれほど悪くはない。いや、神の御目は、やもめや孤児にこそ、ことさらに注がれているのなら、私のような「痛い子」は、なおのこと主の憐れみを受けたに違いない。もしそうであるなら「痛い子でも悪くない」どころか「痛い子万歳!」である。
いずれにしても、いつの日にか、私が天の御国に帰った時、全てが明らかになるだろう。その時には、私は目を真っ赤に腫らして、きっとこのようにお礼を言うに違いない。
「ああ、あなたも!あなたも!あなたも!あなたもそうでしたか!あなたたちがあの時、『痛い子』の私を見て憐れみ、執り成してくれたおかげで、18歳の私は、主イエスに出会い救われたのです。ここ天国に来るまでも、主イエスが共にいたので、どんな辛い時にも、最高の人生を歩むことができました! そしてなんと、この御国であなた方と再会できるなんて! ああ、なんと感謝を申し上げてよいやら。皆さんの執り成しがなかったら、きっと私はここにはいなかったでしょう!」

母や私、我が家の救いが、かつて祈られた祈りの実であるなら、今度は私たち家族が祈る番である。あの「痛い子」のために。

思えばこの30年、今も現在進行形だが、多くの方に迷惑をかけ、誤解や躓きを与え、人々の私に対する忍耐によって支えられたとつくづく噛み締めている。忍耐をもって愛情を注ぎ続けてくださった皆様には、謹んでお詫び申し上げるとともに、心からの感謝を申し上げたい。とりわけ、こんなに出来の悪い痛い子の私に、実の両親以上の愛情と限りのない忍耐をもって接してくださった奥山実牧師夫妻には、どれほど感謝の言葉をのべても、到底言い尽くせるものではない。
アブラハム、イサク、ヤコブがその御前に歩んだ全能の神が、永遠の祝福をもってご夫妻を祝してくださるように。

この証が、どなたかの何かの必要に届き、何かしらのお役に立つなら、これに勝る幸いはない。

恵みに導かれたこの30年に感謝し、すべての栄光を主イエスに帰するものである。

"わがたましいよ主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ聖なる御名をほめたたえよ。
わがたましいよ主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
主はあなたのすべての咎を赦しあなたのすべての病を癒やし
あなたのいのちを穴から贖われる。主はあなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ
あなたの一生を良いもので満ち足らせる。あなたの若さは鷲のように新しくなる。"
詩篇103篇1~5節

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