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保育メモ〜「信頼」と「安心」から考える

保育はサービスではないと思います。
サービスは他者から安心を享受されるものです。
安心とは、伊藤亜紗によれば、他者からひどい目にあうことを想定していないこと、だそうですが、ここでは「「安心」とは、損害を被らないことを一方的に他者に対して押し付けること」であると言ってみます。

この「安心」がやっかいなのは、
・押し付けに対して無自覚であること
・絶対的な「安心」はない、という前提にたっていないこと
・それなのに絶対的な「安心」に見合う対価を払っていないこと
だとしてみます。

保育はサービスではないと思います。
それは保育が
・一回性(一回しか起こらない)のコトの連続であって、
・それゆえ、絶対的な「安心」はもとより、不確実性に囲まれていて、
・いつでも、均質、不変、不偏なものではないから
サービスたり得ない、と思うんです。

伊藤亜紗は、「安心」と「信頼」を対比しています。
「信頼」は、不確実性があることは認めた上で、ひどい目にあわないほうに賭けること、だそうです。
「安心」と「信頼」を比べると、わたしたちの態度は180度ちがうわけです。
「安心」は他者からの享受を、一方的に、無自覚に、不当に要求します。
「信頼」は賭けですから、不確実なほうへ「えい」と自ら身を投じます。

保育は「信頼」です。
いや、「安心」のほうがいいんじゃないの?という声も聞こえてきます。
仮に「安心」がよいならば、おそらく、保育は人が行わないほうがいいような気がします。人はどうしても不確実性を伴うし、人と人という関係性はさらに不確実性を伴いますから。

現状では、保育は「信頼」でしかありえない。
仮にこのさき、人が保育を行わず、保育に「安心」がもたらされるとしたらどうだろう。それでも、やはり保育は人が行い、「信頼」のほうがいいのでしょうか。

そうなると今度は問題になるのは、無謬性というのがどこに投げかけられるのか、ということのような気がします。
・保育が「安心」であるならば、それは保育そのものが無謬(あやまりがない)ものであって、
・そうであるならば、実はそのとき変質してしまうのは、保育にとどまらず、人間そのものであって、
・なぜなら、保育は「間」にあるものだから、保育する側だけ「無謬」であるにとどまらず、される側にも「無謬」はいつしか浸透し、
・つまりは、いつしか人間というものが変質してしまうのではないか
・また、そのとき「保育」は、関係性のなかに生まれてくる力動的な出会いではなくなり、対象に投げ与えられるモノになるのではないか
・そのことで、ますます、人間のモノ化が進むのではないか

また、そのようなことから派生して考えたいのは、
・では私達は「良さ」というのをそもそもどう捉えているのだろうか。それは無謬とはどうちがうのだろうか。
・ひとが「良く」「育つ」というときに、私達はどのようなことを想定しているのだろうか。


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