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保育の春〜深養父に寄せて

今日は一日、冷たい雨の降る寒々しい一日だった。
窓からは小さな公園が見えるのだが、そこに人気もなく、ただ敷き詰められた落ち葉にあたる雨の音が耳を澄ますと聞こえてくるばかりだ。

保育をめぐる世間の話題も、あいもかわらず、厳しく冷たい。
少し前には、区から、安全計画の策定についての知らせがあった。
園バス置き去りや、その他諸々を受けて法改正があり、国の安全基準を満たすようにしなければならない、そのために、各施設ごとに安全計画の策定をしなければならない、という内容だった。

正直、またか。と思う。
なんのための、誰のための書類だろうか。それを行ったところで、何かが一歩でも前進するのだろうか。
それを作ったおとなたちは、子どもたちに会いにきたことがあっただろうか。

私が保育者になったばかりの頃、子どもに関わるということは自由に関わるということだった。
しかし、今は、人を管理し、監視し、閉じ込めるような仕事に堕ちてはいないだろうか。
これからますます、そうなってはいかないだろうか。
おとなが、関わりもせずに安心したいがために、人の自由を踏みにじってはいないだろうか。

そんな暗澹たる気持ちで、今日も遅々として進まない原稿を書いている。
本になる予定のものだが、その中で、同じ職場で働いている同僚たちが書いた事例を使わせてもらっている。
引用しようと思って、何気なしに読み始める。
そこには、ちゃんとしたあたたかさがある。
レンジであたためたような、強い、その時ばかりのものではなく、
それぞれの人が自分の手で包んで、その温度が伝わるまでじっと待ち、あたためたものが。

ふいに、私の肩から、何かが少し降りたような気がした。
それが自分でも意外であった。
思えば、ここ数年は、自分が先輩たちから受け継いだものをなんとか次の世代に受け継がねばならないと必死だったように思う。
そんなことを意識してきたつもりはなかったが、ふいに、そんなことを意識してきた数年だったように、気付かされた。

ここには私がみてきた保育の風景がちゃんとある。
それは誇れるような実践ではないかもしれない。でもちゃんと、人が人を思い、迷い、自分を持ち出して関わったときにしか、感じられないあたたかさが、そこにはあった。

まだまだ春は遠い。むしろ世間の中で、保育はこれから寒さや暗さを増していくようにも思える。
それでも同僚たちの書いたものは、そんな寒さや暗さに負けない春の到来を感じさせるものばかりだった。

冬ながら空より花の散りくるは雲のあなたは春にやあるらむ(清原深養父)

冬なのに空から花が降ってくる、空のむこうは春なのかな。
好きな歌に心を寄せて、この冬の向こうに春を見ようと思う。


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