Matsui Yoshiyasu

哲学者。論文 'Die Freiheit bei Meister Eckha…

Matsui Yoshiyasu

哲学者。論文 'Die Freiheit bei Meister Eckhart' (Philo. Jb. 104.Jg./II) 'Der Bann des Seins' (Philo. Jb. 114.Jg./II)。著書『存在の呪縛』『神の放下、神の突破』

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日本は世界中から愛されている、といった台詞があふれていますが、それは日本が「サービスの国」だからです。人々はせっせとサービスをする。つまり「仕える」。会社に仕え、国家に仕え、先輩に仕え、金持ちに仕え、男性に仕える。仕えることが美徳となるから喜びにもなる。搾取の見事なまでの組織化。

    • 拙著を買う人間は、二百人か、せいぜい三百人くらいのようなんですが、私と同じレベル(抽象度の話です)の問題を自分の課題としている人間は、世界でも数人だろう事を思うと、すごい数字なのかもしれない。

      • 哲学者は、哲学のことだけを考えていれば良い。と言いたい。言いたいが、哲学のことだけを考えているわけでもなく、それ以外のことを考えているわけでもない学者の存在には、もの申さずにはいられない。哲学のことだけを考えるなら、蛸壺の中を飛び出して世界に出て行けよ、と言いたい。

        • ヨーロッパの言語では、生命と人生は同じ言葉で表現される。その結果、人生の主体と生命の主体は、表現上区別できなくなる。私達人間(そしておそらくありとあらゆる生命体)は、人生の主体ではあり得ても、生命の主体ではありえない。自らの生命を思いのままに出来る人間などいないからだ。

        日本は世界中から愛されている、といった台詞があふれていますが、それは日本が「サービスの国」だからです。人々はせっせとサービスをする。つまり「仕える」。会社に仕え、国家に仕え、先輩に仕え、金持ちに仕え、男性に仕える。仕えることが美徳となるから喜びにもなる。搾取の見事なまでの組織化。

        • 拙著を買う人間は、二百人か、せいぜい三百人くらいのようなんですが、私と同じレベル(抽象度の話です)の問題を自分の課題としている人間は、世界でも数人だろう事を思うと、すごい数字なのかもしれない。

        • 哲学者は、哲学のことだけを考えていれば良い。と言いたい。言いたいが、哲学のことだけを考えているわけでもなく、それ以外のことを考えているわけでもない学者の存在には、もの申さずにはいられない。哲学のことだけを考えるなら、蛸壺の中を飛び出して世界に出て行けよ、と言いたい。

        • ヨーロッパの言語では、生命と人生は同じ言葉で表現される。その結果、人生の主体と生命の主体は、表現上区別できなくなる。私達人間(そしておそらくありとあらゆる生命体)は、人生の主体ではあり得ても、生命の主体ではありえない。自らの生命を思いのままに出来る人間などいないからだ。

          哲学、ここだけの話(憲法いわく?)

          学生に「何が悪か」と問うと、時々「法律に反すること」という答えが返ってくる。もちろん悪の多くは、法律で禁じられているので、間違いじゃないんだけど、じゃあ「法律に反していれば必ず悪か」というと、そうではない。悪法の場合、その法律に反していることは必ずしも悪じゃない。加えて、世の中の悪の多くは、法律で規制されていない。悪の多くは、法律では裁けないのだ。(それは今の政治家をみていればよく分かる) だから法律という名の「権威」に善悪の基準を求めるのは、実は危険なこと。 同じく、「

          哲学、ここだけの話(憲法いわく?)

          日本には「いい人」が多い。ではなぜ、こんな国になるのか。いい人が多いからこんな国になるのです。批判せず、何でも笑って受け入れることが善だとされる国だから、こういう国になるのです。ヨーロッパでは誰も彼もが批判的で、その点「しんどい」のですが、それが彼らの民主主義を支えているのです。

          日本には「いい人」が多い。ではなぜ、こんな国になるのか。いい人が多いからこんな国になるのです。批判せず、何でも笑って受け入れることが善だとされる国だから、こういう国になるのです。ヨーロッパでは誰も彼もが批判的で、その点「しんどい」のですが、それが彼らの民主主義を支えているのです。

          恥ずかしながら、この歳でようやく理解したのですけど、この女の子の「私が何をしたっていうの?」という叫びが、実は人権思想の基礎なんです。「私が何をしたからこんな目に遭うのか。」何もしていません。したがって誰も彼女を傷つけてはいけない。 https://x.com/fussyvet/status/1751206656065876247?s=20

          恥ずかしながら、この歳でようやく理解したのですけど、この女の子の「私が何をしたっていうの?」という叫びが、実は人権思想の基礎なんです。「私が何をしたからこんな目に遭うのか。」何もしていません。したがって誰も彼女を傷つけてはいけない。 https://x.com/fussyvet/status/1751206656065876247?s=20

          世間の常識の是非を世間の価値観で論じることが出来るか。できません。 物事の是非を論じるためには、物事から一定の距離を置かなくてはいけない。 世間の価値観に寄り添わないと、象牙の塔だとか、世間知らずだと非難される。 学者が俗人であってはいけないのにはちゃんとしたわけがある。

          世間の常識の是非を世間の価値観で論じることが出来るか。できません。 物事の是非を論じるためには、物事から一定の距離を置かなくてはいけない。 世間の価値観に寄り添わないと、象牙の塔だとか、世間知らずだと非難される。 学者が俗人であってはいけないのにはちゃんとしたわけがある。

          元々の大学に経済学部や工学部なんてものはなかったのです。むしろまさに象牙の塔で、俗世から隔絶しているのが大学。現代では、世の中に貢献することが大学の使命だという考えが常識化していて、本来の大学の有り様なんてものを主張しようものなら袋だたきに遭いそうです。

          元々の大学に経済学部や工学部なんてものはなかったのです。むしろまさに象牙の塔で、俗世から隔絶しているのが大学。現代では、世の中に貢献することが大学の使命だという考えが常識化していて、本来の大学の有り様なんてものを主張しようものなら袋だたきに遭いそうです。

          昔は(本当に遠い昔)、「哲学書を一冊、ちゃんと理解するには最低でも十年かかる」と教えられました。まあ、その通りだと思います。私がエックハルトの思想を大まかに理解できたと思ったのが、三十前後。もちろん今にして思えば、なんとも浅い理解でしたが……。それだけに集中した上での十年です。

          昔は(本当に遠い昔)、「哲学書を一冊、ちゃんと理解するには最低でも十年かかる」と教えられました。まあ、その通りだと思います。私がエックハルトの思想を大まかに理解できたと思ったのが、三十前後。もちろん今にして思えば、なんとも浅い理解でしたが……。それだけに集中した上での十年です。

          医師資格を持たない人間に診察して欲しいですか? 建築士以外が設計した高層マンションに住みたいですか? (そんなマンション、存在し得ませんが) ところが、この国では、法律を作る仕事に、法律の「ド」素人が就いている。 しかも議員になっても勉強すらしない。 なんで?

          医師資格を持たない人間に診察して欲しいですか? 建築士以外が設計した高層マンションに住みたいですか? (そんなマンション、存在し得ませんが) ところが、この国では、法律を作る仕事に、法律の「ド」素人が就いている。 しかも議員になっても勉強すらしない。 なんで?

          大人たちが社会のことをろくに考えもせずに投票に行って、ひどい政治が続く。大学は、本当の社会、本当の人生について何も教えない。むろん高校までの教育も教えない。それを教師たちの多くが問題にすらせず、ひたすら自分の専門だけを語っている。何も見えていない教師たちによる非・教育的教育。

          大人たちが社会のことをろくに考えもせずに投票に行って、ひどい政治が続く。大学は、本当の社会、本当の人生について何も教えない。むろん高校までの教育も教えない。それを教師たちの多くが問題にすらせず、ひたすら自分の専門だけを語っている。何も見えていない教師たちによる非・教育的教育。

          今の五十歳の人口、二百万人。十八歳人口、百二十万人。昨年度出生者数七十二万人。五十年で三分の一に。この十八年で四割減少。一昨年の出生者数が七十七万人だから、一年で五万人減。この国を愛すると言うのなら、何が最優先事項かサルでも分かる。将来への「不安」じゃなくて、もうこれが現実。

          今の五十歳の人口、二百万人。十八歳人口、百二十万人。昨年度出生者数七十二万人。五十年で三分の一に。この十八年で四割減少。一昨年の出生者数が七十七万人だから、一年で五万人減。この国を愛すると言うのなら、何が最優先事項かサルでも分かる。将来への「不安」じゃなくて、もうこれが現実。

          哲学、ここだけの話(無と存在)

          京都学派と言えば、おおむね「無」を強調する事が特徴です。 西洋は存在を語り、東洋は無を語る。「自分は東洋人の伝統に従って、無を語るのだ」というのは、西田を始めとする京都学派の哲学者たちのセールスポイントと言って良い。 こうした京都学派の主張に対して、同じ京都大学の中で異を唱えたのが山田晶です。彼は、アウグスティヌスやトマス・アクィナスの専門家ですが、彼らこそ京都学派が言う「存在の立場」を代表する思想家たちです。西田の弟子の中でもとりわけ「無」という言葉を前面に出したのが西

          哲学、ここだけの話(無と存在)

          今度、山田晶の「どうして無の方が有よりも深いと言えるのか」という問いに、結局のところ、京都学派の誰も答えていないのはなぜか、について書きます。 京都学派を語るのであれば、彼らが主張し続けてきた「無の立場の深さ」を論じるべきですが、京都を語る人のすべてがこの問いから逃げています。

          今度、山田晶の「どうして無の方が有よりも深いと言えるのか」という問いに、結局のところ、京都学派の誰も答えていないのはなぜか、について書きます。 京都学派を語るのであれば、彼らが主張し続けてきた「無の立場の深さ」を論じるべきですが、京都を語る人のすべてがこの問いから逃げています。

          何度でも書くけれど、日本の哲学を語るのは良いのですが、その前に、しっかりとヨーロッパが生んだ「学問(それの始まりが「哲学」)とは何か」を教えるべきです。 今、それが学べる本ってありますか? それを「読めば」、「必ず」アホなことを口にしなくなるような本。

          何度でも書くけれど、日本の哲学を語るのは良いのですが、その前に、しっかりとヨーロッパが生んだ「学問(それの始まりが「哲学」)とは何か」を教えるべきです。 今、それが学べる本ってありますか? それを「読めば」、「必ず」アホなことを口にしなくなるような本。